飯久保廣嗣 Blog

ここ一年は、日本と日本人にとって、不愉快なことの連続でした。景気、日米関係、中国との関係など枚挙に暇がありません。

その原因は、よく言われるように、国家戦略がないこと、国の形が見えないこと、この国をどうするのかが不明確であるということ、ではないでしょうか。

そこで、一国民として、ド素人の私がこの命題をじっくりと考えました。一国民としてこうあってほしいなという国家像です。人間、その気になって死ぬ気で物事を考えると、内容の良し悪しは別にして、何か出てくるものです。導き出されたのは、「平和貢献国家」という国民全員の賛同を得られるような発想です。

最終的にまとまっていませんが、以下に「平和貢献国家」の構想を記述します。

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平和貢献国家

・わが国の過去の国家戦略は、近代国家建設、富国強兵、戦後復興、経済成長でありました。

・日本の文化的・歴史的資産と国民性を考えた場合、それらに続く新しい国家戦略は「平和貢献国家」というのが相応なのではないでしょうか。

・「平和構想」、「平和協力国家」という国家理念は過去にもありましたが、単なるスローガンだけでは、説得力が乏しく、持続できるものではありません。

・この「平和貢献国家」という概念は、日本人の資質である「物事を丸く治める」、「契約社会よりも信用社会」、「対立や闘争よりも、話し合い」、「勝ち負けよりも和を尊ぶ(Win-Win)」といった背景から、生まれています。

・平和貢献国家を具現化するために不可欠な要素は、武力に依存することなく国際紛争を解決するための具体的なメソドロジー(方法、方策、理論、システムなど)を開発することです。従来の西洋的な発想では、「国防=軍事力」であり、国防予算はすべて軍事力増強に使われています。

・この西洋的な発想の限界を打ち破る考え方が「平和国家貢献」です。具体的には日本の国防費の一部を割いて、メソドロジーの開発に充てます。当然このメソドロジーには、国際社会にとっての新しい脅威であるテロ対応も含みます。

・具体的なメソドロジーの開発のために、世界の英知を集め、国家予算を投入して日本の国家プロジェクトとして展開し、その果実を全世界に供給します。

・この構想は、まさに国防の概念が、「Department of War」から、「Department of Defense」、そして、日本からの発信として「Department of PEACE」となる可能性を秘めています。日本の国防費は軍事費以外の平和貢献の具体的なツールの開発に資するというものです。これは、日本が世界に問いかける大きなメッセージになるでしょう。

・国民は、静的な文化や伝統という領域に加えて、現在国が何を世界社会にしているか、また、し続けるかといった動的な側面がほしいのではないでしょうか。行動が伴うことで国を誇らしく思う気持ちも生まれます。

・「平和貢献国家」が国のあらゆる重要な意思決定の指針となることができれば、国民の税金も有効に使われ、世界社会からも日本が目指すものが見えてきて、日本の国としての存在価値を高めることにつながるのではないでしょうか。

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以上が「平和貢献国家構想」の概要です。

日本人が、米国や中国に対等になるには、唯一の被爆国である日本が、世界の列強が未だに気が付いていない、そして、反対も無視もできない全く新しい世界平和の具体的な方法を国家プロジェクトとして発信し、行動することが必要であると考えます。

軍事大国の米国や中国に対して、「あなた方も国防予算の全てを相手を殲滅するための兵器開発に使うのではなく、予算の一部を充てて、紛争防止や紛争解決の具体的な方法を日本と一緒に開発しませんか、というメッセージを発信するのです。

新戦争形態のテロリズムに対しても、相手を殲滅するための高度な軍事技術だけでは平和は訪れません。テロの予防はその背景や原因に対策を講ずることが重要です。

日本人が本気になって、西欧的な国防予算の概念を変革するのです。この発想は、国の外交とは別の国防予算の範疇で対応するところに特徴があります。

「平和貢献国家構想」は、日本が世界に先駆けて、国防費を全て軍事力に充当するのではなく、その一部を割いて、戦争の発生を防止する方策、不幸にも発生した時の解決策に対する具体的な方策を、世界の英知を集めて開発して提供するという、極めて戦略的な構想なのです。

2010年8月号の『文藝春秋』の新聞紙上広告を見て驚いた。そこに「はやぶさは根性で飛んでくれた」とあるではないか。編集者でさえ、この見出しがいかに非科学的であるかを気がつかなかったのだろうか。科学の粋を集めた宇宙探査機が、根性で飛んだという発想は何を意味をするのだろう。

担当者が、あまりにも喜んだ挙句に、このような言葉が出たのであろう。それはよくわかるが、この見出しを付けた編集者が、いかにもドメスティックな日本的な発想の持ち主であると思ってしまう。

この「根性」をどのように英訳したらいいのだろうか。卑俗の言葉で根性がないことを“no balls”という。ballsが何を意味するかはご想像にお任せする。

それにしても根性で片付けられては、探査機の帰還を真剣に取り組んだエンジニアたちが浮かばれない。それにしても、海外メディアはこのニュースをほとんど取り上げていないのではないか。これが多くを物語っているのではないか。そして、はやぶさⅡに200億以上の予算が付いたとのこと。根性の対価としては少し高すぎるのではないか。

国民が天下りを認めるということを考えたことがあるだろうか。天下りはすべて悪であると、断定してよいものか疑問に思う。世の中に役立つ人材を活用することは、それなりの意義があるはずだ。そこで申し上げたい。天下りを認める条件として、下記を提言する。

①天下りは1回に限る(俗に言われる「渡り」は徹底的に禁止し、罰則を規定する)
②どの省庁であれ、民間や法人への天下りに対し、法律で年収の上限を決める(例えば、トップクラスでも300万円で十分)

唐突だが、第二次世界大戦後の識者が、将来の国の形やあり方について、語ったという話はあまり聞かない。つまり、米国に次ぐ経済大国を作ることが、日本のあり方であるという発想を、識者も国民も持っていなかったのである。日本は、爆撃で破壊された国を復興するという使命に対して、各自が持つ役割を、忠実に懸命になって果たした結果、経済大国になり得たのである。

そこで、先ごろ就任した菅総理に今後、「やめてもらいたいこと」を言いたい。それは、「美しい国日本」的な“国のあり方”を語ることである。理由は、この20年、学者や識者が、よって、たかって議論しても、「美しい国日本」程度の発想しか、出てこなかったからだ。

それよりも、我々もこの際原点に戻り、一人ひとりが自分の役割を忠実に果たすことに、全神経を注ぎたい。菅総理には、国民に向けて、そのことを発信してほしいのである。

例えば、学者や教育者は評論家としてテレビに出るのもよいが、一方で、情熱を持って、命を懸けて、一心不乱に生徒の人格を磨くことに専念する。彼らをよき人間として世に送り出すために、どうしたらよいかを、考え実践する。

つまり、世の中に役に立つ人間にするために、己は何をするべきか。生徒をして、物事に挑戦する気構えを持たせるにはどうしたらよいか。これを熟考し実践するのである。もう、「生徒の長所を発見して、伸ばすことが教育である」といった、スローガン(あり方論)からは決別していただきたい。

政治家も原点回帰をしていただきたい。「選挙に勝つことが目的」といった、サラリーマン的・ファミリービジネス的な発想をやめてもらいたい。そんな人が、軽々しく、「国益、国益」といわないでほしい。

政治家の本来の使命とは、国のために自己犠牲を払い、あらゆる困難を克服して、自分が情熱を燃やす「志」を達成することである。我々の先達も、「志あるところ、それを達成するために、自分の命も時間も省みることはしない」といっている。国会の聖なる赤い絨毯を蹂躙してほしくない。

官僚にも一つ言いたい。官僚の原点は「公僕」である。Public Servantである。「公」に奉仕する人々のことを公務員という。国民に、社会に、国に奉仕することが官僚の本分ではなかろうか。この原点回帰の精神がなければ、公務員改革など達成することはできない。この改革を推進するのが政治家であるのなら、政治家も、自分たちの本分は「公僕」であるという意識が必要である。

今回の参議院選挙で立候補者や政党から聞きたいことは、政策論や政治公約もさることながら、政治家は「公僕」であるという意思表示である。政治家はPublic Servantである。この原点をすべての候補者が持ってほしい。また、この自覚なくして、参議院候補としての資格はないのである。そう、「公僕」である。社会と国民に奉仕する国民の代表を選びたいものである。

政治家になりたいという想いは「志」ではない。Public Servantとなる「志」があってはじめて、「公」に奉仕できる政治家としての資格が生まれるのである。くどいが、Public Serviceが目的であって、その手段として政治に関るのである。政治家の「公」に対するサービスが極端に悪いこの国を革新できるのは、我々国民がどのように政治家の職務分掌を定義するかである。

先達が自分の使命を認識して、それに命を懸けたように、そろそろ我々も、自らができることから、全力投球したいものである。傍観から行動へ。もう、国のあり方を語るような、「評論家気分」は、やめにしよう。

また、メディアもこの国を再建するためのPublic Serviceを論じて欲しい。Public Entertainment「娯楽」だけでは国は成り立たない。

Public Serviceは崇高な事である。誰でもできることではない。自覚とCommitment(信念と自己犠牲)が必要である。

最後に宮沢賢治の詩で原点を考えたい。

雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫なからだをもち 慾はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ あらゆることを 自分を勘定に入れずに よく見聞きし分かり そして忘れず

野原の松の林の陰の 小さな萱ぶきの小屋にいて 東に病気の子供あれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き みんなにでくのぼーと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず そういうものに わたしは なりたい

私たちはこのような原点を持つ人物を政治家として選び、国の経営を任せたいのである。この宮沢賢治の詩は、国際的に通用する日本人の本質を表わしているといっても過言ではない。

最近気になる現象の1つが、社会を活性化するためにむやみに起業家の出現を奨励する機運があることだ。もちろん起業自体は否定されるものではない。しかし、問題は起業することが目的になっていることだ。本来なら、起業は目的を達成するための手段でしかないのではないか。

渋沢栄一や岩崎弥太郎という明治の大先輩は、会社を興すことが目的ではなかったはずである。目的は、日本の近代化を促し、産業を興すことであったと思う。その結果、多くの企業が誕生した。

また、シリコンバレーの起業家たちはわが国の起業家に比べてスケールが違う。例えば、2月24日に新製品発表したブルームエナジーという会社は、電力を生み出す「ブルームボックス」という画期的な電池を開発。米国ならばこの電池2個で1世帯分の電力をまかなえると報道されている。

GEやシーメンス、フィリップスなどの大企業の研究所から生まれたものではなく、ベンチャー企業が世の中に出したものである。インド生まれのCEOは、一攫千金という発想があったにしろ、企業を興すことが目的ではなかっただろう。化石燃料が枯渇する状況下で、どのようにして家庭に対して効率よく電力を供給するかという目的を追求する結果、この会社が起業されたのではないかと思う。

わが国においても起業を志す人々は、社会のニーズに対して新しい創造や価値観を統合するといった視点から起業を考えたらよいと思う。

私は、論理思考に関する仕事に34年にわたって携わってきた。当初はビジネス人個人に対し、コンセプチュアルスキル、つまり中国でいう智力(十分な知識がなくても問題解決ができる能力)、欧米でいうインテリジェンス(新しい状況に対してスピーディーに間違いなく対応できる能力)を展開してきた。

今までの実績を振り返ると、論理的な思考の究極の目的は、個人の能力アップや企業の生産性向上ではなく、わが国の経済全体に関わる問題ではないかと思うようになった。

リーマンショック以降の各国の回復状況を見ても、日本は大幅に遅れをとっている。さまざまな背景や原因があるにしろ、根本的な問題の1つが、政府や企業が行なう意思決定のスピードと精度にあるといえる。

また、最近の国際交渉を見ても、日本だけが交渉の土俵に乗り切れていないような気がする。このフラストレーションが何かを考えてみると、どうしても日本人の問題解決のアプローチが独特であり、世界的なメンタリティに合わないといわざるをえない。

よく言われる、韓国のサムソンがこれだけ企業としての実績を上げている背景は、国策企業ではあるというものの、重要案件に対する意思決定が速いということが既に指摘されている。

この意思決定のスピードは、中国やインドをはじめアジア諸国に共通であり、日本だけが蚊帳の外にある。この状況を放置すると、企業や国全体の競争力低下につながり、日本の国そのものの衰退につながるといったら言い過ぎだろうか。

この日本の現状を裏付けるデータがある。スイスの拠点を置くIMDが毎年発表している世界競争力年鑑を見れば明らかである。日本は2009年発表の総合で順位が上がったとはいえ、17位となっている。ちなみに2007年は24位まで落ち込んだ。IMDの順位を分析すると、順位が低下している背景が2つある。それは政府の効率性(Government Efficiency)とビジネスの効率性(Business Efficiency)が極端に低いということである。

今もって不思議なのだが、この現実について、政府も企業も学者も、ほとんど触れていない。極論をすれば、この領域の改善がなされない限り、日本の競争力が向上することは考えられないのではないか。

このEfficiencyの本質は言うまでもなく、意思決定の精度とスピードである。また、社会全体が躍動していない背景の1つに、リスクテイキングをしないことが挙げられる。

意思決定の精度とスピードについていえば、やはり問題から解決に至るまでの考え方の段取りが論理的であり、プロセスとして確立されてなければならない。ちなみに、政府の高官や企業のトップに「あなたはどのような考える手順で意思決定をされているか」ときいた場合、説得性のある回答が出てくるだろうか。日本以外の国では、責任ある意思決定者はこのプロセスを明確に意識している場合が多い。

また、なぜ日本ではリスクテイキングをしないか。それには2つの理由が考えられる。第1は過去に痛い目にあったことがあり、大きな責任問題に発展した事例があることにこだわることだ。このことが意思決定者の意識の萎縮につながる。

第2の理由はリスクそのものの実態を把握していないことである。実態の把握とは、潜在的に発生する数十、数百という現象を想定し、それらに対して対応策があるかどうかを見極めることである。現象とは、計画からのズレであり、起こりうる不利な状況であり、起こりうるダメージである。

よくいわれる「想定外」という表現が、わが国では安易に使われすぎている。むやみやたらに「想定外」という表現を使うということは、自身の将来に対する読みが浅かったことを開示しているようなものである。本来、「想定外」は、決定を実施する際に、数十、数百という将来起こりうる現象を想定して初めていえることである。

これらのことは、一企業や組織の問題にとどまらず、日本の社会全体の克服すべき課題として取り組む必要がある。それによって停滞している日本社会の現状を打破し、企業においては競争力強化を促進するための不可欠な要素となる。

自己宣伝で恐縮であるが、昨年9月に日本経済出版社から『組織で使える論理思考力』を上梓した。友人の元日経役員から、「いい歳をして出版するとは立派だね」とお褒めの言葉をいただいた。人々は企業や組織から引退するものの、人生から引退してはいけないと思う。

特に、この激動の時代に先達の実績や智恵を伝承していくことは、社会から引退し若干自由な時間がある世代が担う社会的責任であると思う。この責任は、物事の本質に関わるものであり、社会的な地位とは無関係の人間の営みの中心をなすものである。その伝承を怠れば、国の民度が損なわれることになる。

ところで、民度を定義するとどうなるだろうか。私は、「国民が認めた常識や規律がどの程度守られているかを表わすもの」であると考える。

規律違反者に対して無関心でありあまりにも寛容になる状態は、世の中の秩序が崩れていく前兆といえる。法律違反者に対しての罰則規定が甘くなれば、犯罪発生の抑制力が弱まることになる。

例えば、日本では脱税に対する処罰が他の罰則に比べて甘い。経済犯罪に対しての罰則も同じことが言える。民度の高い先進国では、法律の違反者に対しては徹底的に追及をする。

以前、私の知人の息子が米国の州議会議員となり、財務担当として活動していた。善意で州の資産運用をしたが、リーマンショックで損失が発生した。この件では公の資金を善意で運用したにも関わらず、流用したという嫌疑をかけられ、裁判に付され、その結果、7500万円の罰金と懲役18年が言い渡された。現在上告中だが、この青年の社会的信用や政治生命は絶たれてしまった。

欧米では、このように経済犯罪と判断される行為に対しては厳しい罰則規定があり、このことが、犯罪の抑止力になっている。そしてこの抑止力こそが、民度を高める一助となっているのである。

話を戻そう。先達の智恵を後世に伝えることも、民度を保つ活動につながるのではないだろうか。わが国が世界社会において、幾ばくかの敬意を払われるためには、心ある国民が「傍観から行動へ」という意識を持ちたい。

第一線から引退した世代は旅行や趣味に忙しいときく。しかし、それらを満喫した後の人生の目標の1つに、我々の先達が大切にしてきたものを、次の世代に伝承しようという気持ちを持ち、できるところから始めてよいのではないか。

拙著の紹介に絡めて、書生のようなことを書いたが、たいした印税にもならない本を凝りもせず出版した次第である。ぜひ、ご一読いただきたい。

※しばらくブログをさぼっていました。ある友人が「あれはどうした」といわれたので再開します。

2009年10月31日にダライ・ラマが日本外国特派員協会で記者会見をした。その場に参画した私の感想を述べてみたい。時間は45分が講演、45分が質疑応答であった。

当然チベットに対する中国政府の弾圧に関する内容が主であると予想していた。しかし、内容は極めて哲学的・思想的なものであった。もっとも、質疑応答で中国新華社通信の若い在日特派員の無礼な一方的な質問に、中国批判をし、それだけが日本の一部新聞に報道されたことは大変不幸であり、公平ではなかった。

朝10時からの会見に正確に9:58に会場に到着。司会者の紹介の後の第一声が何であるかに興味を持っていた。なんと、“Brothers and Sisters.”であった。通常は、“Ladies and Gentleman”だが、日本人はこの2つの違いがわからない。後者は英国で伝統的に特権階級に向けて発する表現であり、前者こそ平等な問いかけなのである。そこをわきまえていることにまず感銘を受けた。その後の講演も原稿は一切なしであり、言葉は終始英語。聴衆を魅了する講演であった。

まず、世界同時金融危機の根本的な原因は、人間のGREED(貪欲・強欲)とSPECULATION(思惑)であると指摘。この状況を解決すためには倫理観が必要であるが、倫理を特定の宗教に求めることは適当ではない。宗教を離れたPRINCIPLE (原理原則・法則、主義・道義、正道・正義)が必要であると、説いた。

また、地球規模での教育の問題に関しての言及もあった。その根本は「現代人に欠けているものが何かを追求する“リサーチ”をしなければならないということ。その中心になるものの中にこそ、AFFECTION (愛情・情熱を持って打ち込む心)、COMPASSION(共感する暖かい心)、そしてWARMTH(優しさ。思いやり)があると述べた。

倫理の源泉を宗教に求めるのではなく、COMMON SENSE(常識)とSCIENCE(科学性)を考えるべきであるとも述べた。ここで私は通常、常識的と訳されるCOMMON SENSEについて解説を試みたい。ウェッブスター辞書によるとCOMMON SENSEとは「対等な立場で人々が互いに受け入れる公における共通の見解や認識能力」とでもいおうか。

一方、SCIENCEは普遍的法則であり、観察によって生まれるシステム化・体系化された知識といえるだろう。そこを出発点として論理や理性への展開が図られるのである。これは人類の共通の財産ともいえよう。

またCOMMON SENSEとSCIENCEを基本にする倫理観は、江戸時代における商道徳や家訓につながるものかもしれない。

さらに、教育については、その根本は宗教を使わずに人類愛、つまり“GOOD HEART”を育てることであると説く。わが国の教育者に聞いてもらいたい定義ではなかろうか。

最後に、ダライ・ラマは自身の生涯プロジェクトとして、①宗教を用いずに、前述の“GOOD HEART”を教育する方法の開発、②RELIGIOUS HARMONY(人類の宗教間の和解促進)といって、講演を閉じた。

今回のダライ・ラマの話を聞いて、西洋における宗教のリーダーが、ローマ法王であるならば、非西洋のリーダーはダライ・ラマをおいてほかにはいないと感じた。

余談ではあるが、ダライ・ラマの後継者は自分が指名するのではなく、本山のダライ・ラマ財団が指名をするそうである。既に指名を受けた人物はいるはずだが、誰であるかは、まだ発表されていない。わが国ではエリート教育の必要性が盛んに言われるが、もっと重要なことは、ポテンシャルを持った若者をどのようにして発掘するかということである。

我が鳩山総理が提唱している「友愛精神」について、国民や世界に対して、その概念や定義を明確にする必要があるのではないか。日本人でさえその言葉の本質を理解している人は少ない。

例えば、広辞苑によると、友愛とは「友人に対する親愛の情」とある。また、「親愛」とは、「親しみ愛すること。人に親しさを感じ、愛情をいだいていること。」となっている。これを読んで、その基本的な概念を読み取ることは難しい。このことが、国際社会において混乱や誤解を招かないように、念ずるものである。

ところで、友愛の英訳について、悩んだ結果、友人の小笠原俊晶ジャパンタイムス会長の秘書を務めるロードさんに聞いてみた。ロードさんは、「文脈によって、英訳は異なる」といい、“friendship”、“comradely”、“fellowship”、“affinity”、“brotherhood”など、様々英単語を挙げた。

和英辞書によると、Fraternalismという英単語も見られる。鳩山総理が言う、「友愛」がFraternalismを意味するのであれば、WEBSTERR’Sの定義によると、「精神的なつながりによる友情、同じ信条を持つ人々の集まり及び職業的つながり」となっている。

この「友愛」を発信することは、大きなメッセージとなることは間違いない。しかし、このことは、意思の表明である場合と、行動する場合とでは、基本的に異なることを認識したい。後者の場合、国家間の友好関係は、関係国がお互いに同じレベルでその気持ちを持たなければ成立しないのではないか。

例えば、相撲の立会いを考えてみる。両者が同じ緊張感を持って、同じ土俵で環境が整い、対峙しなければ、事は始まらない。ということは、友好関係はタイミングと双方の思いが一致することなくして、確立できないと思われる。

わが国が世界に対して、「友愛」を発信することは大いに結構であるが、相手に対して「くみしやすい」といった誤解を与えないようにしたいものだ。外交関係は、友好的で、平和的な姿勢が必要な一方、相撲で言えば「勝負」であるという側面も持つ。

さらに、相撲にこだわってみれば、外交で使える様々な心構えや行動規範が見えてくる。例えば、相撲にはハンディキャップも重量制もないことも、国際社会で発信する際の本質を示唆しているのではないかと思う。相手の大きさや力関係も、相撲の精神を用いれば、克服できる可能性があるということだ。

また、決着がついても、相撲では、勝者はおごらず、相手に対する配慮をし、敗者は相手に憎しみを持たないことが原則。これも交渉事での姿勢として活用できる。

このような日本固有の考え方や文化とともに、「友愛」を国際社会に対する参考として供したいものである。単に友愛を唱えるだけでは事が進まないことは、対中、対ロの外交がよい証左となっているかもしれない。一人相撲は滑稽に見えるといっては言いすぎだろうか。

今月のはじめ、私は母校の理事会に理事として出席するためにアメリカを訪れた。現地で印象に残ったものの1つは、急激に増える中国製品の存在である。「世界の工場」と言われている中国からアメリカ社会に供給されている中国製品―Made in China―が確実にアメリカ社会の一部になっていることが近年の大きな“Change”だと思った。

Made in USA製品をアメリカのショッピング・モールやデパートで探すことがいかに困難か。毛皮製品からカシミア製品、そして電気機器などの精密機器も多くが、Made in Chinaである。

この事実を時代の流れとして容認することが自然なことなのかもしれない。しかし、私は問題意識として捉え、なぜこのような状態になったかを考えてしまう。

中国は外貨準備高が世界1位であり2010年には日本を抜いてGDPが第2位となることはまず確実だ。また、その経済力を背景に海軍が増強され、自前の航空母艦を建造していることも周知の事実である。一国が自国の繁栄を目指すことはごく自然である。中国はこうした国としての前進を、市場経済システムの導入により実現した。

実態としては、資本の原理が市場経済という美名の下に米国の企業により展開され、中国を経済大国にした。その過程には、儲けることだけを目的とし、倫理観、社会性、人間性を無視した企業行動も見られる。そうであれば、今後資本主義そのものが、中国という未だに共産主義国であり、国家統制下に置かれた国家に、その根本を揺るがされる事態を招くかもしれない。

欧米では、資本主義の根本にある「プロテスタンティズム」の思想が企業倫理を育てた。これは、企業と経営者が当然持っているべき精神だ。また、日本においても家訓という行動規範があり、昔の住友家の家訓「我住友の営業は時勢の変遷理財の得失を計り弛張興廃することあるべしと雖(いえど)も苟(いやしく)も浮利(ふり)に趨(はし)り軽進すべからず。」はその代表的なものである。

これらの観念が今日失われたことが、金融危機に端を発する世界同時経済不況の原因であるならば、真の資本主義を復興するために再考しなければならない。あれだけの経済力を持つ中国がアフリカで資源外交をするものの、ODAを展開して、途上国を援助するという話は聞かない。これは、中国では企業や国が社会的な責任を果たすという観念が希薄だからかもしれない

いわゆる“GREED”な企業経営者が合理と利益のみを追求し、今日の世界同時金融危機を生み出した。その結果、先進国が不況に陥り、中国が経済発展をしている。このままでいけば、米国にMade in Chinaの車が走ることになるだろう。

合理性を追求して利益を出すことのみが、市場経済のすべてであれば、企業の社会的責任や企業倫理はいらない。社員の福祉もいらない。社会正義もいらない。その結果、秩序のある資本主義社会は崩壊することになるかもしれない。

企業は儲けるために手段を選ばないことになる。それに対して政府が社会や市民を守るために規制や法律を作ることになるが、市場経済はボーダーレスになっており、有効に働く確証はない。そもそも世界社会で有効な規制などあるのだろうか。

1991年にソ連が崩壊し、自由主義陣営が勝利した。ところが、資本主義が儲けるためには手段を選ばないという風潮がこのまま続くと、中国という共産国家が米国や自由陣営を席巻すると言う皮肉な事態になるかもしれない。

ところで日本には江戸時代から商人道といった規範があった。だが、日本から日本人の手で日本の知恵を外国に発信した例は少ない。真の資本主義を持続させるためにも、ここらで、日本がイニチアチブを取り、西洋と非西洋が融合した新しい資本主義に対する概念や行動規範(法律や規制ではない)を世界に提唱したらどうだろうか。

戦後の日本を救った米国

1945年の太平洋戦争敗戦直後、米国は戦後のわが国に対して、総額二十億ドル(当事の為替レート換算で7,500億円)という膨大な援助を実施した。

これら援助は、ガリオアおよびエロアと呼ばれ、国民を異常な食糧難と飢餓から救い、今日の経済復興を遂げ得る基盤を築くことができた。当時の米国の敗戦国に対する寛大は処置を忘れてはなるまい。

ちなみに、旧ソ連のグロムイコ外相はサンスランシコ平和条約締結に、日本に対する処置が寛大であると言って、不満を表明し、調印式から退席したことも忘れてはならない。

もっとも、このガリオアエロア資金に対して返済要求が米国政府より日本になされ、1954年に両国間で協議がなされ、その使途は両国の教育交換計画など教育投資に使われるとされたが、賠償問題も解決されず、結局曖昧に処理されたようである。

しかし、米国は戦争賠償の要求を放棄した。そして、当時の蒋介石中国政府も戦争賠償を放棄したことが歴史の事実としてある。ちなみにヨーロッパに対するマーシャルプランは西ドイツ(当時)を中心に当事者間の協議の結果、一部が分割方式で米国に返済された。

また、1951年に調印されたサンフランシスコ平和条約締結の直前の1950年、当時のダレス国務長官が来日し「米国と日本は勝者(Victor)と敗者(Vanquished)の関係ではあるが、完全な対等な関係(Completely on Equal Basis)で、平和のために両国を含む連合国との関係を修復する」と演説していた。

国際社会が注視する“日米”と“日中”

前置きが長くなったが、ここから本題に入りたい。このたび発足した鳩山政権の外交政策を見ると、こうして我国と米国が築いてきた歴史的な信頼関係をどのように評価しているのかが心配になる。

日本が国家として存続するためには、日米同盟が不可欠である。勤勉な国民性やボランティア精神、人権に対する考え方、そして民主主義という多くの共通点があり、信頼関係の基礎がある米国との同盟関係は日本外交の基礎であることを忘れてはならない。

日本が米国との強力な信頼関係なくして、長期的に中国や韓国と対等な同盟関係が確立できるのか、その可能性を考えてしまう。果たして、現実的なのだろうか。

また、戦後64年の日米関係から我国は多くの恩恵を受けた。また、日本も米国の外交政策などに協力してきた。この協力・友好関係を「米国に依存しすぎてきた」と言って、米国と距離を置くという発想は、果たして国際社会が評価することになるのだろうか。真の友人関係というのは相手が困っているときに親身になって相談に乗る関係ではないだろうか。

中国が大切であると言って単純に日米関係ウエイトを下げる。そしてその分中国とアジアに軸足を移し、対等な立場で信頼関係を確立しようとする。このような日本の考えを、国際社会はどう見るのだろうか。そして、米国はどう考えるのだろうか。

まだまだ、政治制度、倫理観、人権問題、言論統制、共産主義体制、国際外交における経験不足、国家理念などが異なる中国と、対等な立場で信頼関係を確立できるのだろうか。

一番気になることは、中国が、「井戸を掘った人の恩義を忘れない」という考えを持ち、実践していることである。日本が米国から受けた恩義を忘れて、日米の友好関係を軽視している傾向を中国の指導者がどう見るかである。

中国の指導者が、日本は米国との友好関係を利用するだけ利用して、情勢が変わったからと言って恩義を忘れる軽薄な恩知らずの国民性を持つ国であるとでも考えられたら困る。日本の国益とはこのようなところにもある。

西郷翁の遺訓から学ぶ外交の本質

このことは日本と日本国民の威厳と威信に関わることではなかろうか。前にも述べたが、ここで、西郷隆盛の遺訓を紹介したい。

正道を踏み、国家を以って斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順する時は、軽蔑を招き、好親却って破れ、終に彼の制を受くるに至らん。

少し解説をすると、

人間社会・国際社会の普遍的な正しい道を歩み、国家として全力投球をしなければ、外交は成功しない。相手が強大である事に萎縮して、うまくいくことを重要に考えて、相手の意見に従ってしまうときは、相手から軽蔑され、友好関係が破綻して、最後には相手のコントロールを受けることになる。

この遺訓を生かすことが、相手と対等に渡り合える条件ではないだろうか。

日本の外交政策もこのような歴史からその本質を学びたいものである。西郷が国賊の汚名を受けたことは事実ではあるが、それと同時に、明治の大人物として国のために尽くした歴史上の大先輩であることも覚えておきたい。

これは、筆者が昭和41年にダイヤモンド社から出版した『外人コンプッレクス』から引用した。古くは、明治の思想家、宗教家、教育者の内村鑑三が『余の尊敬する日本人』で紹介している。

鳩山政権の外交姿勢を論理的に分析すると、ある政策を採用した結果、どのようなconsequence(そのことを実行したら、どのような複数の結果が起こりうるか(プラスとマイナス)の想定)と対策が充分になされているかということである。単なる思い付きやある特定の人間の影響から短絡的に政策を策定し、展開することも危険なことである。

友好は結果であり目的ではない

話を鳩山新政権下の日米関係に戻そう。鳩山総理の外交ブレーンにどのような人物がいるかは知らない。しかし中国重視を進言する人は、国家間の同盟関係は、両国が相互にその必要性を認識しなければ成立しないことを、どのくらい認識しているのだろうか。

そういう点で、果たして、中国が日本と同じレベルで両国間の信頼関係を構築しようと考えているのだろうか。中国側の日本に対する優先順位は日本のそれと比べてかなり低いといわざるを得ない。中国にとって、もはや日本は眼中にないと見てよい。当然、中国が相手にする国は、中国より進んでいる米国である。

このような地政学的な状況の中でこそ、西郷翁の「曲げて彼の意に従順すると軽蔑を招き」を心したいのである。両国の「国人」の間の交流・友好は促進する。しかし、政府間の関係は友好よりも緊張の連続と考えたほうがよい。友好関係の確立は結果であって、それ自体が目的にはならない。問題を関係者が満足する状態で解決する結果、友好関係が確立されるのではないだろうか。

問題解決には政治的な判断、外交に関する経験とともに、論理的な思考様式が必要なのである。物事が感情的にこじれてきた時に、それを解決する力は理性でありABILITY TO REASONなのである。

今回も、筆者の新刊『組織で使える論理思考力』(日経プレミアシリーズ)の内容から、話題を提供したいと思う。

さて、日本では組織や個人の論理的な思考能力があまり向上していないといわれているが、それはなぜだろうか。筆者は「論理のみで動かない日本の組織では、論理思考力は役に立たない」という印象を持たれている人が多いことが、主な背景ではないかと思っている。そのため、学習や教育も深まらず、実践にもあまりつながらない状況になっているのではないか。

そういった印象を持つ原因にはいくつか思い当たる節がある。まず、個人も組織も「論理思考は短時間で身につけられる」という、安易な期待を抱き、その期待が裏切られ続けたのではないか。筆者の反省点でもあるが、教材や研修の内容を改善する余地はあっただろう。

また、論理的思考プロセスのステップを、単なる「知識」として理解すれば、即座に実践できるという「錯覚」もあったのではと思われる。それは不可能である。論理思考についての「知識」をいくら学んでも、その思考法の「根拠」を理解しなければ、実践的な場面では柔軟に使うことはできない。
例えば、意思決定において、「目的や目標を明確にすること」が必要であるといわれる。では、「なぜ、目的や目標を明確にしなければならないのか」と問われたら、何と答えるか。

この「なぜ」がすなわち「根拠」なのである。この問いに対する答えは、「意思決定において、ある案を選定し実施した場合の狙いやアウトプットを事前に設定することが重要なため」ということになる。

また、「その決定の制約条件(人・モノ・カネ・技術・情報・時間・場所など)を明確にする必要があるが、それはなぜか」と問われたらどうだろうか。答えは、「これらの項目は、結果的に複数選択肢を選定する場合の判断基準、いわば“ものさし”になるから」となる。

答えはこれだけではなく、根本的な考え方や思想、立場、状況によって若干変わってくるだろう。重要なのは、ここまで深く「根拠」を考えることである。それによってはじめて、実践的な場面での活用が見えてくる。

論理思考における思考の手順には深い意味があり、その意味を理解することが、本来の論理武装の本質なのである。そして、論理思考の技術を身につければ、どのような局面でも、たとえばそれが不合理がまかり通る組織の内部ででも、十分に活用することが可能になるのである。

本では、組織において、どのように論理思考力を活用していくかを、詳しく述べている。それは、従来のツールや関連本が役に立たないと感じられた方々も、理解し、納得し、実践できる内容となっている。ご一読いただければ幸いである。

組織で使える論理思考力(日経プレミアシリーズ)

役員クラス、さらにはトップになれば、問題解決や意思決定の精度と迅速性がさらに要求される。

各部門から上がってくる諸重要案件の決裁をし、組織にとって望ましい部分を伸ばし、一方でマイナスを除去する判断の連続である。このことは、グローバル化の中で存続するために、組織をどうするかという基本的な課題に、答えを出していくことに他ならない。

三菱商事の社長・会長を務められた三村康平氏は、トップの役割についてこう述べた。

「世の中がどのように変わっても、きちっとした意思決定ができる組織を確立し、それを維持することである」

この三村氏の考え方をどのように自分の組織で確立するかが、ラショナル思考を展開するCEO・役員の最も重要な命題であると思う。

これを、別の表現で言えば、「組織の“意思決定のコスト”をどのように削減したらよいか」ということになる。

製造コストの削減を達成した日本の産業界が、目に見えない思考業務の効率をいかに向上させるかが、CEO・役員の大きな責務といっても過言ではない。

また、CEO・役員にとっての重要な発想の転換は、「部下に対してどのような質問をして意思決定をするか」ということである。

特に重視すべきポイントは、CEOや役員が決裁において、タブーとされる質問をしないことである。

それは、

「この計画は問題ないね」
「これは本当に大丈夫だね」
「この決定に対して責任を持ってくれるね」

という質問である。こういった質問をされると部下は、「実は問題があります」とは答えにくい。このようにして、起こりうるリスクを隠蔽する状況に陥ることを避けなければならない。

国外では、想定外の大きな問題が起きた場合は、経営者は謝罪をしたり、責任を取って辞任するということはまず起きない。

日本との違いはいったい何か。それは、「問題や事故は起こりうる」ことを前提に諸対策を講じているかいないかである。したがって、上記のような質問は欧米ではしないのである。

組織のCEOが責任を取るのは、起こりうる問題や事故に対し、それらの発生を防止するための予防対策にヌケ・モレがあった場合である。また、問題が発生した際の影響を最小化するための対策に同じようにヌケ・モレがあった場合である。この場合は、単なる謝罪や辞任では済まされず、刑事問題となる。

これは、CEOや役員が将来の起こりうる問題に対し、徹底的かつ具体的に発生しうる現象を想定し、それらに対する対策を立てる必要性を示している。日本の企業風土はリスクに対して考え方が甘く、謝罪をすれば問題が解決すると思っている節がある。このことが、将来問題への対応の甘さにつながっていることを十分に認識したい。

仕事とは問題解決、意思決定、リスク対応の連続である。特にマネジャーにもなれば、そうした「思考業務」の割合が飛躍的に多くなる。

しかしマネジャーの中には、自分が「問題解決者」であるという自覚が足りない人が多い。そのため思考の修練を怠って、「思いつき」によって組織を動かし、部下を困惑させると同時に、失敗を繰り返していることが少なくない。

問題解決には「知識」「智力」が必要である。智力は問題解決の基本的な思考様式と考え方である。そして、理想的な問題解決者となるには、「問題」とは何かについて正しい理解が欠かせない。

例えば、原因究明に関する問題を分類すると、「発生問題」、「発掘問題」、「創出問題」の3つになる。「発生問題」は突発的に発生する現象であり、製品の不具合、市場からの商品クレームなど、問題のほうから飛び込んでくるものである。

「発掘問題」は問題として存在はしているものの顕在化していない。事業部の売上の減少が継続している(氷山の一角)、なんとなく部門内の士気が上がらないなどである。発掘問題については、鋭い質問による対応が考えられる。「どのような現象がどこで起きているのか」、「誰が何を言っているのか」で、対応できる。

「創出問題」は、一見、「あるべき姿」と「現実」に差異がない状態における問題である。一般的に「当部門ではすべて順調で問題はありません」という考えこそが、実は問題だ。

そうした際にはチャレンジングな課題をつくり出す姿勢が必要なのである。たとえば「売上目標が達成されている」、「工場の生産性が計画通りである」という状況に対して、より高い目標を設定し、それを達成するための課題を明確にすることが必要となる。

ラショナル思考的に考えれば、「あるべき姿」を現実的に上位展開することによって、そこに人為的な差異を生じさせ、その差異を克服する手段を課題として設定することになる。

この創出問題へのもう一つの考え方は「リスク対応」の応用である。発想としては「○○工程の時間を20%削減することに対するリスク対応」あるいは「△△地区の販売目標を10%増加することに対するリスク対応」という発想で、それを達成するための阻害要因をどのように克服するかがポイントとなる。

太平洋戦争終結の目的で、米国は8月6日に広島の原子爆弾を投下した。このことの日米における歴史認識は、米国側は戦争の早期終結により多くの人命を救う方法としてやむをえないものとしている。一方、日本側の結論は、未だに出ていない。

筆者は、2004年ごろ米国の原子爆弾に関する実施記録を見たことがある。それによると、第1回の実験は、1945年5月にネバダで実施された。第2の実験は、8月6日の広島であり、その備考欄には、「コンバット(実戦)」となっていた。

8月9日に第3の実験がなされた。これは長崎である。やはり備考には「コンバット(実戦)」と記録されていた。

戦争における異常な状況での原爆投下ではあるが、人類に対する非情な犯罪行為として、問題を解決しなければならない。また広島の3日後の長崎は「戦争終結」という理由では、説明できないだろう。これは、広島がウラン型の原子爆弾であり、長崎がプルトニウム型であったことが、その投下理由を如実に表わしているといえる。これは米国の識者も認めているところである。

もう1つ記憶するべきことは、8月8日である。それは、ソ連(現ロシア)が日ソ中立条約を破棄した日であり、翌日参戦してきた。条約がなぜ破棄されたのかの理由は別にして、我々はこの日を歴史的な日として記憶しておく必要はないのだろうか。なぜなら、この参戦により、北方領土問題など未解決な問題が発生しているからである。また、筆者の記憶が正しければ、ソ連はサンフランシスコ平和条約への署名はしてなく、つまりは対等な国家間のつき合いがなされていないともいえる。

サンフランシスコ平和条約には49カ国の署名があるが、その中にソ連の署名はない。これは、条約締結時に、ソ連の代表であるグロムイコ氏が日本に対する対処が寛容すぎるという理由から、退席したという事実がある。

そして、8月15日だ。現在、昭和天皇に関する書籍が多数出版され、関心を呼んでいるが、天皇は敗戦後の9月27日、マッカーサーを面会し、次のようなにいわれたと記録されている。

「戦争責任は自分が負う。どのような処分も受ける。その代わり、国民に食料を提供してほしい」――。

これは、天皇自身のお考えであり、周囲から進言されたものではない。なぜなら、周囲が天皇にこのようなことを言えるはずがないからだ。

日本人にとっての8月をどのように捉えるかは、個人によってさまざまだろう。筆者は、原爆に関してはいたずらに被害者意識を持たず、この事実からどのような建設的な発信が世界に対してできるかを、それぞれが考えてみてはどうか、と思っている。

また総選挙がやってきた。しかし、重要案件にも関わらず、意外に国民の関心はそれほど高くないのではないか。理由はいくつもあろうが、筆者なりに大きく2つに分けて述べることにする。

1つは、政治家や政党がこの国難のときに、どのような国にするのか、国際社会でどのような位置付けの国にするのか、といった国家の根幹に関わる論議をしていないことである。マニュフェストなどといってカタカナ日本語で誤魔化しているが、そのカタカナ日本語の中身からは、その本質がスッポリと抜け落ちている。それは、元総理がいった「美しい国」といった表現では話にならない。日本の国のあり方を問われ、「美しい国を目指します」といって、国際社会がまともの付き合ってくれるだろうか。今の民主党の党首の「友愛社会」もあまりに現実離れしている。国際社会では「?」となり、バカにされるだけだ。

そして、「公約」といえばいいのに、なぜ「マニフェスト」というわけの分らない言葉を使うのか知らないが、各党が出しているマニフェストのほとんどが「手段」であり、その結果何を目指すのか、「目的」がおざなりになっていることも問題である。例えば、民主党の「子ども手当・出産支援(年額31.2万円)」、「高速道路の無料化」、「暫定税率の廃止」もすべて手段である。自民党の「国会議員数の削減」、「3~5歳児の教育費用の無償化」も同じだ。つまり、聞こえばかりよくて、何のための政策かの「何のため」が不明確なのだ。

またこれらの「公約」は選挙のための「たわごと」であることを国民はよく知っている。その証拠に、選挙を控えて公約を慌ててまとめている。そんな公約を信じろというのは無理な話だ。本来、公約とは、時間をかけて形成し、それを勉強し熟知した候補者が国民に掲げるものではないのか。国民は、当選すること・させることを「目的」と考える候補者や政党に落胆している。

政治家のメルマガやブログも、まるで理念や自分の考えがないものがほとんど。内容は外国で誰と会談したとか、国会のどの委員会の理事に就任したとか、おおよそ、国民にとってどうでもいいことばかりだ。そこに国のビジョンや己のミッションに関する気概のある議論や言葉は見当たらない。

さて、2つ目は、候補者の素性が不明確であることだ。選挙とは、当たり前のことだが、複数の候補者の中から国政を任せるのにふさわしい人物を選ぶ行為である。ところが、選ぶために必要な候補者の素性を知るための情報がない。

我々は就職の面談に行くときに必ず履歴書を持参する。それは採用する側に、自分の素性を知らせ、会社の一員としてふさわしいかどうかを判断する基準にしてもらうためだ。採用する側(国民)に求職者(候補者)がきちっとした履歴書も開示せずに選べとは、いったいどういう神経をしているのか、疑ってしまう。

就職の面接では、経歴に空白があったりすると、その理由を問われる。空白が長いとその人の信用に関わる。国民はそこも1つの物差しとして、判断したいと思っている。このような当たり前のことが無視されているのだから、国民が政治に関心を持たなくなるのも当然といえよう。

もし、このような状態で投票率が高くなったら、それは選挙そのもののクオリティに問題があるといわざるを得ない。選挙で投票することは「義務」ではあるが、同時に、我々の代表を選出するという「権利」でもあるのだ。素性がよくわからない人たちを選び、国会で国の経営をさせることへの負のインパクトを考えたい。

なお、筆者は今度の選挙は投票には行くが、「候補者に関する情報が少ないので選べません」と書くことにする。無論、無効票になる。だが、国政によく知らない人を選ぶことほど、国民として無責任なことはない。政治家の方々にお願いしたい。選挙制度を何とかしてください。

日本中を覆っている閉塞感や自信喪失を心配する人は多いだろう。何となく生活が保たれているが、皆、それこそ、何となく危機感を持っている。この状況が長期化すると社会の活力は萎えていく一方である。

組織や個人の活力を取り戻す方法はさまざまだと思うが、筆者はそのアプローチの1つとして、日常生活に使われている平均的な言葉(ボキャブラリー)をしっかり定義することに活路を見出したいと考えている。

筆者は1980年代に米国の各都市を講演のために周ったことがある。その1つの都市であるミシガン州のデトロイトを訪問したとき、「権利」、「責任」などについて解説した初等教育用のテキスト(Wayne State University版)を入手した。

その中には子供として理解しておくべきいくつかのキーワードが記されていた。そして、驚くことに、そこには大人でも納得するような、実に明快な定義が記述されていたのである。

例えば、フェア(Fair)の定義である。日本語訳では、「正しい、公明正大な、規則にかなった」といった定義となっている。ところが上記の小冊子にはより具体的かつ本質的なことが書かれていた。「すべての人に同一条件を与えること」となっていたのだ。

つまり、それを実践的な形で言い換えれば、「条件を同じにして競争する」ということだ。スポーツに当てはめれば、技術が劣る参加者にはハンディキャップをつける、ボクシングやレスリングなどでは体重によって階級を設けて競わせる、などとなる。

ここで注目したいことは、日本的なフェアの定義、つまり「公明正大であればそれでよい」という考え方は国際社会では通じないということだ。好例が、日米の自動車摩擦である。当時、米国側が「日本はフェアでない」と非難した意味が我々にはわからなかった。日本は公明正大に企業競争をしているつもりだった。それを「なぜ非難されなければならないのか」。そんなスタンスが大勢を占めていた。

これに対し米国側は「競争条件を同じにして競うこと」を要求していたのだ。それを具体的な形でいえば、「日本企業が米国に工場を開設し同じ生産環境で競争しろ」ということになる。日本の自動車業界はその後米国のいう「フェア」な条件で戦い、勝利を得ることができた。

筆者が言いたいことは、日常的に用いる言葉や概念を国際的に通用する形で定義していくことにより、我々日本人は、世界を相手に競争する方法を見出すことができ、それを活力とすることができるのではないか、ということである。

例えば経営用語のおける「問題」と「課題」はどう違うのか。「目的」、「目標」、「狙い」、「ゴール」はどう違うのか。「選択肢」、「対案」、「代替案」はどう違うのか。そういったことについてあらためて国際的に通用するかどうかを意識しながら定義することで、その後に本質的で建設的な議論の展開が可能になる。「どうしたらいいかわからない」といった人が多い今、言葉の定義を見直すという根本的な作業は、実は有効なのである。

参考までに、デトロイトのテキストに記述されていた他の言葉の定義も以下に記す。

①政府(government)
日本語の定義は、「国家をおさめる機関。内閣と中央官庁」。一方、デトロイトの定義は「都市や州や国家の運営に関する諸事項をマネージする集団」となる。マネージとは単なる「管理」だけではなく、「物事を処理する、方向付けをする、規制する」など問題解決という概念が含まれていると筆者は認識している。

②権利(Right)
日本語の定義は「一定の利益を主張し、またそれを受けることのできる法律上の能力。ある物ごとを自由になしうる資格」。一方、デトロイトの定義は「個人に当然与えられるべきもの」となっている。

私の知人に中国語のエキスパートがいる。彼女は早稲田の大学院で博士課程に在籍しながら、若くして北京大学から「環境マネジメント」について中国語で教える常勤講師として招聘された。おそらく北京大学の日本人の常勤講師は前例がないのではないだろうか。

その彼女との雑談の中で、中国語は単数形と複数形を明確に区別しているということを知り、これは私の中では一大発見となった。今までは先入観で中国語は日本語と同じように単数形、複数形を区別しない言語だと思っていた。しかし、実態は違っていた。これが意味するところは、中国語が、国際語である英語との共通性があり、日本の伝統的思考様式とは一線を画するということである。

もう少し詳しく説明すると、中国語の文法は、日本語のように「主語が不明確」、「動詞が最後につく」という形式とは違い、英語と同じ形式(主語+動詞+目的語)である。その上に、さらに、単数形と複数形を区別するという共通項も持っているのである。

このことは、日本人の国際コミュニケーションにどのようなインパクトを与えるのだろうか。

我々日本人は複数形の概念を意識することが希薄である。そのため、「優先順位の概念を使いこなせていない」、「意思決定という概念において、複数選択肢から最適案を選ぶという明確な解釈がない」、「物事の目的を考える場合、どうしても単数形になり、副次的な目的を考えない」など、国際的な問題解決の場面に参画できない思考様式を持ち合わせてしまっている。

一方、中国語は、国際語である英語や西洋の思考様式と類似している。つまり、日本人はこのままでは、日米中の経済大国の中で、基本的なものの考え方で孤立する危険があるということだ。このことは私にとって大きなショックだった。それと同時に、日本人の思考様式をより合理的なものにするための活動に、ますますまい進しなければと思った。

それでなくても、中国の人たちは、アグレッシブであり、自己主張力があり、議論が大好きで、しかも考え方が合理的である。このことは、米国の特徴と一致する。ことの良し悪しは別にして、これは日本社会全体の問題として捉える必要があるのではないか。

我々が、目指す論理思考の強化は、言い換えれば、グローバル・スタンダードである標準的な思考様式を理解し、それらの“Why”を明確にして、実践に活用できるツールとして身に付けることにほかならない。

そして、日本的な思考様式にある、さまざまな知恵や考え方を、再編成すると、自ずから論理的な思考様式が確立できることを認識したい。論理的な思考様式は、西洋からの輸入品ではなく、我々の経験がそのベースとなるのである。この領域における日本の弱みは、判断業務におけるさまざまな知恵が、体系的に整理されていないことである。

では、今回は優先順位の“Why”について考えてみる。なぜ我々は優先順位をつける必要があるのか。それは当たり前のことであるが、限られた経営資源(人、モノ、カネ、時間、技術、情報、場所など)を有効活用するためである。例えば、重要度や緊急度がともに低い案件を分析し、対応策を立案することは、必ずしも合理的とはいえない。

ここで、注意すべきことは、優先順位と意思決定とは区別して考える必要があることである。優先順位とは、直面する状況の中で複数の問題や課題があった場合、どれから手を付けるかの判断をするに過ぎない。これに対し、意思決定は、決定事項に対して、複数の選択肢を立案し、最適なものを選ぶという分析行為なのである。必要であれば、このようなことも充分に意識したい。

日本人や日本の組織が、論理思考をますます必要とする時代が、今後も続くことになる。なぜならば、日本の競争力は、意思決定の精度とスピードにリンクするからである。別の表現をするならば、日本の組織には「意思決定のコスト」をどのように削減すればよいかという、避けては通れない課題がある。

そこで、前回に言及した論理思考の“Why”について、さらに解説を進めたい。

ここでは、発生した問題現象の原因を究明する場合の論理的な思考手順を考えてみる。まず、いわれることは、「原因究明をする課題を明確にしろ」ということである。では、なぜこのことが論理思考で必要なのか。それは2つ考えられる。

1つは、発生している現象に対して収集する情報の範囲を限定することができるからである。問題分析において、情報が多いほどよいということは、実は正しくない。論理的に整理された次元で体系的に情報を収集するためには、分析課題が明確になっていなければならない。

2つ目は、個人やグループで分析業務をする場合に、当該課題に対して集中させることができるからである。また、分析や討議が脱線した場合、本論に立ち返らせるための、ガイドとしての役割も果たす。

ここで、分析課題が明確になり、次のステップとして、「情報を収集しろ」ということになる。情報収集の合理的な枠組みに関しては、別の機会に述べるとするが、なぜ情報を収集するのかという“Why”について、ここでは考えたい。それは、発生している現象について、抜けなく漏れなく説明するためである。

例えば、「A製品は半年前より首都圏の○○顧客から大量にクレームが出ている」では、現象を十分説明していることにはならない。首都圏のどの地域であるか、クレームの具体的な内容は何か、どのような状況で発生しているのか、このクレームの傾向はどうか、などの情報がなければ、現象の全体を説明しえない。

さらに、情報収集には重要なポイントがある。それは、B・C製品についてはどうか、首都圏で問題が起きてない地域はあるのか、発生していない状況はあるのか、他の顧客では問題はないのか、などの情報も収集しなければ、この“Why”に対しての解にはならないのである。

最近、新聞や雑誌、書籍などで、「論理思考」に関する記述やタイトルがほとんど見られなくなった。このことは、日本の組織・社会で物事を筋道を立てて考えることに、人々が関心を持たなくなったことの証左ではないか。

なぜこのような状況になったのか。個人も組織も自己武装のために、研修や書籍によって、学習をした時代が続いたが、現実的にはあまり実践に役に立たなかった。その背景には、いくつかのことが考えられるが、その1つは、論理思考を短時間で身に付けることができるという、安易な期待感が個人や組織にあったことではないか。一方で、学習した教材や研修の内容に、問題があったことも挙げられるだろう。さらには、論理的思考プロセスのステップを単に知識として理解すれば実践できるという錯覚があったことである。

言い換えれば、論理的な思考についての知識をいくら学んでも、関連する各々の考え方の“Why”(根拠)を理解しなければ、あらゆる実践的な場面で柔軟に使うことはできない。例えば、意思決定においては、「目的や目標を明確にすること」が必要であるといわれる。では、「なぜ、目的や目標を明確にしなければならないのか」を、考えたことがあるだろうか。

日本の知識偏重教育においては、物事の「なぜ」を考えさせる機会は皆無に等しい。その結果、いきなりこのような設問をされると、皆さんは戸惑うことになる。前述に戻り、「目的や目標」の「なぜ」を考えてみると、その1つは、意思決定において、ある案を選定し実施した場合のアウトプットを事前に設定することが重要だからである。また、その決定に対する制約条件(人・モノ・カネ・技術・時間・場所など)を明確にする必要があるからである。これらの項目は、結果的に複数選択肢を選定する場合の判断基準となる。

これ1つをとっても、論理思考における思考の手順には深い意味があり、これを理解することが、本来の論理武装の本質なのである。ますますグローバル化する時代において、我々ビジネス人が個々の能力を強化する上で、こうした“Why”を理解し、論理的な考え方を見直すことが重要なのではないだろうか。

例外的な政治家を除いて、よく批判されるのが、政策策定や立法において、官僚主導型であるということである。これは現在の状況では致し方ないことかもしれない。なぜなら、制度上、内閣府に政策や立法を考える機関と能力がないためと思われる。

米国には独立した共和党系のハドソン研究所、民主党系のブルッキングス研究所があり、国の政策や法律について、戦略的な研究を進めている。わが国に、このような機関を早急に作り出すことは、困難である。そこで、現状を踏まえて諸議員が官僚と対峙し、政策論争を展開するときに、1つの有効な武器として挙げられるものが「質問力」ではなかろうか。

では、どのような質問形が考えられるか。下記に列挙する。これは、官僚が俎上にのせてくる政策や法律などの諸案件などの説明を受けた後で、それらを精査するために使える1つのツールとなり得るのではないだろうか。

1.実施した場合の工程表で、成功させるために、どの工程(諸重大領域)を注意する必要があるか。またどの工程に支障や問題が発生するのか。
2.それらの工程で具体的に起こるかもしれない計画からのズレや将来問題を想定すると、どうなるか。考えられる諸問題をすべて明確にせよ。
3.それらの将来問題(起こり得るリスク)を「発生する確率」と「起きた場合の重大性」で絞り込むとどうなるか。
4.それらの将来問題を引き起こす原因となるものはなにか(想定原因)。
5.この想定原因を取り除く対策(予防対策)にはどのくらいの予算が必要か。
6.将来問題発生時の事前の対策(コンティンジェンシー)にどのくらいの予算が必要か。

上記の質問形は、昔からの日本人の知恵にあるもので、西洋から学んだものではない。本質は、計画には2つの対策を織り込むことが重要であるということを示唆している。1つは予防対策であり、「発生するかもしれない問題の原因を除去する対策」のことである。そして、もう1つは、コンティンジェンシーであり、「発生したときの影響を最小化するために考えておく対策」のことである。

この2つの対策を予め策定することの重要性を、「備えあれば憂いなし」ということわざによって先達は教えているのである。重要なポイントは、いかに政策や法律が完璧に策定されていても、それを実施する際の問題点と対策を想定し、計画そのものに盛り込むことである。


政治家主導の政策立案を推進する場合、官僚に対し鋭い質問で対応するということが重要である。そのことが、より国益にかなった政策論争につながるのではないだろうか。

税金の無駄遣いに対して、国民は大きな関心を持ち、それに対する対応の議論がなされている。しかし、この中で、欠けている視点が2つあり、それについて述べてみたい。

1つは戦略である。多くの学者や有識者は、日本には戦略がないので、国のあり方について議論をしなければならないという、評論家的なことは口にするが、具体的にそれを構築するために、どうしたらいいかという議論にはなかなか至らない。

近代日本史には明治維新、太平洋戦争敗戦、平成不況という3つの大きな節目があった。明治維新、太平洋戦争敗戦という混乱時には、日本人は国家として大きな戦略を形成し、それを具現化した。

この2つの歴史的な事柄に対しては、ごく自然に国家戦略を形成することができた。それは、「産業国日本の建設」と「経済復興」であり、これらは高度な分析など必要なく、結論を得ることができた。その背景には、外国の影響により自然とその方向性が決まり、国も国民も一丸となった対応があったのである。

しかし、今回の平成不況は、その原因が外国との関連ではなく、日本人が自ら引き起こした現象であり、それは複雑な要素が入り組んでいる。したがって、原因を明確にして対応することが非常に困難であり、失われた10年が、20年になろうとしている。このような背景から、日本としての戦略の形成がいまだに進まないのである。

そこで、スタート台に立つために、戦略の概念とは何かについて明確にする必要がある。私は、高度な戦略論を展開する資格はないが、自分なりの考えを提示したい。2000年余りの歴史を持つ日本という国があるのは、先人が何らかの戦略的な思考を持っていたからではなかろうか。

この戦略的な思考を先達が持っていたことの証拠は、広辞苑(昭和41年第1版25刷)の「経営」という言葉の定義にみることができる。そこには、「縄張をして営み造ること」、また、「規模を定め基礎を立てて物事を営むこと」とある。この発想がまさに戦略の原点といえる。

すなわち、「重点投資をする範囲や対象を明確にし、それに基づいて諸計画を策定すること」をいっているのではなかろうか。今日使われる戦略の概念に欠けている点は、まさにこの「重点投資をどうするか」という議論なのである。このことから、国の財政が破綻寸前にもかかわらず、バラマキの予算がまかり通ってしまう。技術立国を目指す発想も、どの領域に絞って重点投資をするかという基本的な視点がなければ、成果はおぼつかないだろう。

戦略とは、組織の将来の方向(Direction)や性質(Nature)を形成するための概念である。これを具現化した企業が、有名なフィンランドの携帯電話メーカーのノキアである。従来林業を主としていたが、重点投資領域と組織の性質転換のための戦略を形成し、それを見事に実現した例である。また、米国のGEは、総合電機メーカーだったが、重点投資領域の1つとして金融を設定し、事業展開した。これも戦略的発想の成功例である。

戦略形成を考えるときに重要なのは、組織を動かしている主な駆動力(ドライビングフォース)が何であるかを、見極めることである。その駆動力自体を変えることから、すべては始まる。例えば、個人レベルで言えば、若いときは収入だったのが、その後は生きがいになったり、社会に対する貢献になったりする。この駆動力が変わることによって、将来の方向や性質が転換することになる。

日本の戦略を考える場合に、従来の駆動力であった製造中心、外需依存社会をどのように変えるかについては、なされている。だが、何を駆動力にするかについての具体的な議論が収斂されていない。この駆動力は組織の規模によって必ずしも単一ではなく、複数あってよいと思う。また、戦略=長期計画という発想もこの際見直す必要もある。経営環境が激変すれば、柔軟に駆動力を変更することになるからである。

こういった戦略欠如の状態で法律を作り、諸施策が施行されてしまう結果、それがうまくいかない。うまくいかないことに対する対応策を国家予算を使ってまた考える。この悪循環が、税金の無駄につながるのである。

2つ目の欠けている視点については次回に譲りたい。

乱世の時代には国語が乱れる現象が歴史的にあったかどうかは別問題として、社会通念やルールにまで影響を与える「不思議な日本語」が横行している。そのなかで2つのことを取り上げてみたい。ひとつは「失脚」であり、もうひとつは「理解を求める」である。

安倍晋三元総理に対し特に恨みはないが、あのような経緯で国の最高責任者としての責務から離れた場合、その報道の表現のひとつとして「安倍晋三総理は失脚した」とあっても良いのではないかと思う。これに異論があるかもしれないが、少なくとも国際社会において最高責任者が納得できるような根拠がなく辞任することは、「失脚」と言われても仕方がない。

同じようなことは中川昭一元財務大臣にも言える。マスメディアはこぞってローマにおいての醜態を批判し報道した。この時点で、中川元大臣には誠にお気の毒ではあるが、政界から「失脚」したと海外の常識や社会通念は判断するのではないか。一方で、日本のマスコミは、性懲りもなくこれらの人物を再三登場させることに全く問題意識を持たない。特にテレビは視聴率を上げるために、時の人として何度も登場させる。このことのマイナスをよく考えたい。自国の恥を世界に積極的に売り込んでいるようなものである。

ところで、「理解を求める」という報道も横行している。例えば、わが国の高官が外交交渉において相手国との会談後、わがマスメディアは次のような表現を用いることが多い。「○○国の担当大臣に面談し、理解を求めた」という表現である。

常識的に考えると、下の者が理解を求めることはあっても、上の者が下の者に理解を求めるという発想はあり得ない。理解を求めるという発想は、対等な立場を放棄したと思われても仕方がないといえる。

欧米諸国に対して日本は理解を求める立場が過去にあったことは事実である。しかし、最近の報道をみると、ODAなどで援助している国に対してもわが政治家や政府高官が「理解を求めた」という表現があり、非常に気になる。

「理解を求めた」ではなく、本来の表現は、相手に対して「代替案を示した」「主張した」「協議をした」「要請をした」「撤回を求めた」などが適当ではなかろうか。

いくら何でも、北朝鮮との交渉で相手に「理解を求める」ということはないだろう。それ以外の国との交渉も同じ姿勢が必要だ。理解を求めるという意識がわが国側に少しでもあれば、相手国につけ入れられることになりはしないかと憂う。また、日本の報道が本国に報告される場合、「日本が理解を求めた」という表現を直訳される可能性が高いことも、非常に問題だ。国やマスメディアのこうした姿勢が、相手国との対等な交渉を困難にすることを、今一度真剣に考えることが必要ではないだろうか。

それでは、具体的に英会話と論理思考の関係を、意思決定の場面を使って述べてみよう。下記はあくまでも基本的な考え方であり、このことを理解することだけで、英会話が飛躍的に向上するわけではない。若干のヒントになればと考えている。

意思決定のプロセスの定石は、①「何を決めるのか」(決定事項を確定し認識する)、②「その目的は何か」(求められる諸アウトプット)、③「他に方法はないか」(複数選択肢の示唆)、④「まずいことは何か」(選んだ選択肢の副作用)、となる。

①「何を決めるのか」については、例えば、組織の見直しでは、「最適な組織の再編成案を選ぶ」ということになり、また新規事業に関しては、「展開する事業領域を選定する」である。また選ぶという状況でなく、企画立案というテーマもこの範疇に入る。

②「その目的は何か」は、英語でいうオブジェクティブ(objectives)のことであり、例えば、組織の見直しであれば、「組織の生産性向上」、「責任分担をより明確にする」、「環境変化対応を容易にする」、「コミュニケーションを活性化させる」など、複数の項目が挙げられる。

③「他に方法はないか」は、1つの選択肢に短絡した場合、「○○会社の斬新的な組織を導入する」ということになり、これでは、発想の発展性が限定される。この発想を展開するためには、上記②のオブジェクティブをより満たすような、諸組織案を考えることになる。

④「まずいことは何か」は、ある組織案を選定して実施した場合、どのような副作用があるかを、想定することである。例えば、「△△組織案を採用した場合どのようなまずいことがあるか」について、多角的に起こりうる問題を想定し、必要であれば対策を講じていく。

上記のような考え方の段取りを頭に入れて、意思決定の場面に臨むとすれば、全体像が把握できると同時に、自分の発言内容やそのタイミングがおおよそ図れるようになる。このことだけで英会話が上達するわけではなく、反復訓練が必要なことは言うまでもない。

平均的な日本のビジネス人の基礎英語力(読み書き・文法)は、他国に比べて引けをとらないと思う。問題は、この基礎英語力が、コミュニケーションの手段としての英会話に結びついていないことである。

そこで、表題について実践に役立つような発想やヒントを提示したい。英会話の主な目的を大別すると、①よき人間関係をつくるための英会話力②会議などで議論をする場合の英会話力、そして、③グループで問題解決を図るための英会話力、となる。例えば、友人・知人との英会話は①であり、国際会議での議論に参画する際は②であり、国際的な場面での問題解決を進めるときには③となる。

ここでは、上記の②、③について若干の参考となる考え方を述べてみたい。このことは、基礎英語力をどのように生かしていくかということになる。ちなみに、われわれ日本人は、基礎英語力とともに、基礎的な論理力があることを認識しておきたい。この裏付けは、日本人は、技術力や数学・物理分野における能力が高いことということだ。

日本人の問題は、英語にせよ、論理にせよ、目に見える部分では能力を発揮できるが、目に見えない部分が暗算思考になっていることである。別の表現をすれば、問題解決力/意思決定力は一種の名人芸と捉えられている。名人芸は口伝・秘伝の領域であり、効率よく伝承していくことは難しいと思われている。この領域をモザイク社会の米国は共通思考方式の必要性から体系化したと考えている。

このようなことから、われわれの思考様式に体系化された論理思考を取り入れることにより、英会話力の強化につながると私は確信している。

では、なぜ論理思考力を高めると、英会話力が強化されるのか。それは、グローバルのデファクトである「論理思考」を自身の中に構築することで、国際的な場面においてどのような思考手順により議論が展開されているか、その大まかな道筋を読むことができるようになるからである。それによって、現在の英語力に関係なく、発言・発信することがより容易になるのである。

では例えば、意思決定の場面において、どのような思考工程があるのだろか。それは、次回に譲ることとする。

一昔前には、日本を含むアジア5カ国が国際社会における英会話力が劣ると言われていた。それらの国は、日本以外に韓国、中国、タイ、マレーシアである。

ところが、今日では、日本を除いて、他の5カ国は国際社会における英会話力が抜群となり、唯一日本は取り残されてしまった。韓国からは国連事務総長が出ている。中国、タイのテクノクラートの英語力は欧州に比べても引けをとらないレベルである。マレーシアは、元首相のマハティールの英語力が卓越している。なお、元々英語が公用語であるシンガポールは全閣僚の英語力が優れている。

それに対し、日本の実態は悲惨なものである。英会話ビジネスのみが脚光を浴び、レベルはアジアの中でも最低水準だ。この背景はいったい何なのだろうか。以下に挙げてみたい。

・英語教育が読み書き偏重であり、英会話を軽視してきた。
・英会話を教える教師の英会話力が低い。
・大学受験におけて英会話力のテストがない。
・人前で恥をかきたくないという、完ぺき主義。
・いびつな英会話ビジネスの間違った指導。

など枚挙に暇がない。しかし、このほかに言われてないことがある。それは、「英会話と論理思考の関係」である。

今日では、挨拶程度の会話は、なんとかできる水準に達しているが、会議や議論の場において、日本人はどうしても引けをとる傾向がある。その理由として大きいのが、短時間で自分の意見をまとめ、発信する力が弱いことである。

その原因としては、問題から結論に至る考え方の枠組みが整理されていないことが挙げられるだろう。この枠組みが整理され、自分のものになれば、英会話力も自ずと強化することにもつながる。

アジア諸国の飛躍的な英会話力の躍進の背景には、その国のエリートが海外での学習の中で、いわゆるクリティカルシンキング(論理思考力)を身につけ、それを活用することによって、英語による発信力が強化されるという、因果関係があると思われる。

次回は、この論理思考がどのように英会話力の強化に影響を与えるかについて、具体的に述べてみたい。

昨日まで2週間ほど米国に出張した。ご他聞に漏れずGMの工場閉鎖、各社の人員整理などあまり明るい話題はなかった。そして、各地でお目にかかった日本人の友人は、日本の現状を憂い、このままでは日本は米国人の関心外になるだろうという。日本からの発信がないことが大きな原因であろう。

口下手で自己宣伝ができない日本が優れた商品によって発信し、ODA等の経済力で存在感を示してきたが、これからは肩身が狭い思いがしばらく続くことになろう。

ところで、オバマ政権の初めての閣僚会議が発足約100日後やっと開かれた。この閣僚メンバーを見ると、これが本当にアメリカ政府の閣僚メンバーかと、目を疑うほどの陣容だ。全く新しい時代の幕開けである。

閣僚21名の中で、白人(White)の男性は僅か8名の38%しかいないのである。黒人(Black)が男女合わせて4名、東洋(Asia)が3名、メキシコ系(Hispanic)が2名、そして白人女性4名という陣容である。最年長がロバート・ゲイツ国防長官(65)、最年少がスーザン・ライス国連大使(44)である。ちなみに、ガイトナー財務長官は47歳、オバマ大統領は8月に47歳になる。

多民族国家のアメリカであっても、依然白人が多くを占める。いくら、民主主義で選ばれた大統領とはいえこのような閣僚の布陣を引いて、米国の世論はこれをどのように評価するのか関心をもって帰途についた。

帰りの機上で大統領就任100日目の世論調査を目にした。4月24日のUSA TODAY / ギャロップの結果は、56%が最高の評価(Excellent or Good)であり、20%が最低(Poor or Terrible)、中間が20%であった。実に76%の国民がオバマ大統領の仕事ぶりを評価していることになる。しかし、民間企業の救済や膨大な財政投資に対する批判も聞かれる。

なお、保守的な米国人はあまり評価しないが、オバマ大統領がヨーロッパ訪問で、核の廃棄を訴えた演説をしたことが報道された。わが日本の総理からも、すかさずこれを評価し世界で唯一の被爆国として日米共同で核の廃絶を主張するなどの発信を期待したが、残念ながらそれはなかったようだ。

先日、小生の事務所で若いビジネス人の勉強会が開かれた。10人程度のグループである。目的は、問題解決、経営問題、意思決定、リスク対応、そして、外交問題、日本の国際社会への貢献、日米間関係と多岐にわたる項目について討議をし、なんらかの知的刺激により自己啓発と具体的なスキルアップを図ることである。

今回はリーダーシップについての討議もなされたが、「優れたリーダーに求められる資質は何か」という質問に対して、その場で明確な回答を示すことができなかった。第一に、このリーダーシップという外来語にどのような日本語をあてたらよいかについて思い悩んだ。結論は出なかった。

国語辞書によるとその定義は、「①指導者としての地位・任務②指導者としての素質・能力・統率力」、となっている。

一方で、私の事務所で働いている中国通で、早稲田大学大学院で国際関係の博士課程に在籍する女性がリーダーの中国語の訳を教えてくれた。1つは、「領導」で、これは多分に英単語の「leader」の音からあてた漢字である。次に「帯頭人」で、人の上に位置するひとという意味。そして3つ目が、「指揮者」であった。広辞苑の指揮者の定義は「①指揮する人・指図する人②特に音楽で、管弦楽・吹奏楽・合唱などの指揮をする人、コンダクター」とある。

日本では、リーダーを指揮者とは言わない。リーダーはリーダーなのである。それで、なんとなく納得するところが日本人の長所であり、また短所でもある。これだけリーダーシップに関する論議があるのだから、是非専門家に、リーダーの定義と日本語にどう訳したらよいかをうかがいたいと思う。

ところで、管弦楽などの「指揮者」が満たすべき条件を考えてみると具体的なイメージがわいてくる。それは、ビシネスのリーダーにも適用できる資質(リーダーシップ)なのかもしれない。独善的かもしれないが以下にまとめてみる。

①自分が演奏できる楽器を持っている。― 自身の専門分野を持つ。

②楽団員の集中した注目を集めることができる。― 尊敬と相互信頼。全体の把握力。

③自分が知らない新しい曲を指導できる。― どのような状況でも問題解決ができる。

④柔軟に一致団結した演奏を指導する。― 目的に向けた統率力。

⑤同じ演奏者で新しい音楽を創る。― 挑戦力・創造力・リスクテイキング。

⑥聴衆を魅了する。― 感動を与える。相手をして意識の高揚が図れる。

⑦何が起きても演奏は中断できない。― 持続性と目的達成への執念。

⑧演奏終了時に盛大な拍手を受ける。― 目的を達成した満足感の共有。

世界的な指揮者であるマエストロ小沢征爾はこの条件を世界的な次元で満たしている。

コミュニケーションの強化をする場合に、避けて通れないことがある。それは、われわれが使う言葉を定義することではないだろうか。これをしないと、意思疎通の齟齬が起こり、感情論になったり、分析業務が混乱したりする。

例えば、「目的」、「ゴール」、「目標」、「オブジェクティブ」などの言葉をどう定義し、使い分けるのか。また、「意思決定」と「優先順位付け」は、どう違うのか。「問題解決」と「意思決定」はどう違うのか。「問題」と「課題」をどのように扱うのか。枚挙に暇がない。

今回は、「問題」をどう定義するかについて考えてみたい。私の恩師であり、友人のC.H.ケプナーさんは、1958年に「問題」の定義をしている。

それによると、「問題」とは、「過去に起きたトラブル現象や不具合のこと」であり、概念的には『「あるべき姿」と「現実」の間の差異・ギャップが発生している状態』としている。

しかし、私は最近、この定義を拡大解釈してもよいのではないかと、考えている。「過去に起きた差異」だけでなく、「現在」、意思決定がなされていなければならないという「あるべき姿」に対して、それができていないという「現実」。また、「将来」のリスクに対してヌケなくモレなく対策が講じられていなければならないという「あるべき姿」に対して、それがなされていない「現実」。これらの差異・ギャップも、問題の範疇に入れていいと思っている。

言い換えれば、過去の問題は原因究明、現在の問題は意思決定、将来の問題はリスク対応と、整理をしてもいいだろう。過去の問題について言えば、3つある。発生問題(クレームや工場の不具合など)、発掘問題(社員の不満など)、創出問題(生産性向上、1人当たりの売上げ増大など)である。現在の問題は、「複数の選択肢から最適案を選ぶという状況」、「課題設定」などが含まれる。将来問題は、主に問題を発生させないための予防対策(1次対策)と、発生した場合の影響を最小化する発生時対策(2次対策、コンティンジェンシー)に分類できる。

このように定義することで、コミュニケーションは飛躍的にスムーズになる。ぜひ心得ていただきたい。

米国発の金融危機では、経営者の姿勢というものが改めて問われている。巨大な金融機関のトップや幹部が巨額の報酬を得ていることが問題となった。公的資金を受けているにも関わらず、その裏ではしっかりと自分たちの懐を潤わせる。その強欲な姿には、米国民のみならず、世界中の人々が、懐疑の目を向けた。

現在はその矛先が米国の誇りでもある自動車メーカーのトップに向かっている。移動でのジェット機の使用を取りやめたり、自身の報酬を大幅にカットしたりして、トップはその火消しに躍起になっている。最近では、退職後に莫大な年金をもらうことが明るみとなり、最終的に払うのかどうかにも衆目が集まっている。

これらは元をただせば、企業があまりにも「儲ける」ことに貪欲になった結果ということができる。つまり、あらゆる手段を用いてとにかく利益を上げることだけを考え、それに伴い、報酬が上がるシステムを作り、会社にも経営者や幹部にも、お金が怒涛の如く流れ込んでくるような仕組みを構築した。手段は、倫理的に問題があるものでも、それが「儲ける」ことにつながるのであれば、先を争うように採用していく。ついには度が過ぎ、抑制が利かなくなり、今回のような崩壊となった。多くの関係者が、こぞって英語で言う“greed”になってしまったのだろう。

ここで、思い出すのが、リコーの創業者である市村清さんが常々言っていた言葉である。それは、「『儲ける』ことではなくて、自然に『儲かる』ような仕事に手をつけるべきだ」というものである。

市村さんは、敗戦後間もないころ、明治神宮の宮司から、「神宮関係者が食べていけなくて困っている」と相談を受けた。そこで、「戦争で結婚できなかった方たちも多い。厳粛で簡素な結婚式場を経営されてみてはどうか」と助言し、自らが明治記念館を創立した。それは、敗戦で自信と希望を失った国民が多い中、日本が栄えた明治時代の象徴である明治神宮と大衆を結びつけることで、国民に奮起を促そうという想いを込めた事業でもあった。

こんなもったいぶったところで、式を挙げる人はほとんどいないだろう。そう、赤字覚悟で始めた事業。しかし、ふたを開けてみると、利用者が押し寄せ、開業早々黒字となったそうだ。そこで、市村さんは考える。自分が若い頃一生懸命儲けようと思ってやった仕事は、なかなか儲からない。だが、「儲けよう」というケチな考えからではなく、多くの人々の人生を祝福したい、国民に元気になってほしいという心意気から始めた明治神宮が逆に「儲かる」。つまり、「儲ける」のではなく、「儲かる」、「け」ではなく「か」を考えることが、商売の王道であると市村さんは悟ったのである。

振り返れば、米国もプロテスタンティズムを重んじていた国であり、元々は、勤勉、清廉などを規範としていた。だが、いつしか「け」に走る傾向が強くなり、それが今回の事態を招いた。今こそ「か」からの発想で、ビジネスの本質を追求したいものである。

なぜ日本は米国に追随・追従していると思われているか?

日本の対米追随・追従が言われて久しい。多くの原因の中で2~3の例あげると、その1つは日本人の意思決定の迅速性と精度が低いため、アメリカのペースとの間に大きなギャップが生まれるからである。日本側が分析をしている間に、米国側は結論を出してしまう。これが1つの原因である。

2つ目の原因は、日本人の意思決定に対する思考様式の特性である。特に、二者択一という発想から逃れることができないのが日本人の発想である。つまり、イエスかノーから発展しないのである。欧米がある件に対して意見を求めてきた時に、イエスかノーかでしか判断できない。本来は、決定事項の本質を考えて、新しい選択肢を提示しなければならない。

かなり前の話だが、ソニーの当時の盛田昭夫会長と現石原都知事の共著があった。タイトルは『「NO(ノー)」と言える日本』であったと思う。著者の本来の意図は、日本の意志を明確に米国に示すことであった。この意志の中には、当該問題に対して、「日本はこう考える」という日本の主張を相手に発信することも含まれていたはずだ。

10年ほど前に、ある日本の大新聞は、その年の正月に一面のトップで外国の首脳に、日本のあるべき姿について取材をし、それを掲載した。また、ある経済雑誌は、バブル崩壊後の平成不況の始まりのときに、米GE社の当時のCEOであったジャック・ウェルチ氏に日本産業界に対する提言を取材し、これも大々的に掲載した。このような日本のメンタリティは日本が主体的に自主的に意思決定をする姿勢を示唆していない。

3つ目の原因は、日本が世界社会で、「問題解決者」としての意識が薄いのでは、ということだ。これは積極的な国際貢献の第一歩である。方法や方策に短絡にて、金銭的な協力を国際貢献と考えるのは間違いである。経済的に小国であるデンマークは国際紛争に対して調停などで実績を上げている。

問題解決者は、米国のジョセフ・ナイ博士がいった「コンテクチュアル・インテリジェンス」と中国にある「智力」の概念を理解することが重要だ。すなわち、当該問題に対する十分な知識がなくても、全体像を把握し、本質をおさえ、問題解決ができる能力を重視し、その習得に努めることが肝要ということである。この概念が一時日本でも注目された「コンセプチュアル・スキル」なのである。

クリントン米国務長官が来日し、分刻みで日本の要人と会見した。これは日本における米国のイメージアップにかなり好影響を与えたと思われる。

最初の外遊先として日本を選んだことは、日米関係の重要性を確認する意味があり、これは歓迎すべきことである。日本のマスメディアもこの論調で訪日を評価している。

しかし、外遊の順序が日本→インドネシア→韓国→中国であることを思うと、単純に日本が最重要視されているという図式にはならないのではないだろうか。

オバマ政権が抱えている課題は、イラクとアフガニスタンの2つの戦争である。また、最優先すべきもう1つの課題は、米国経済の建て直しである。

これを踏まえた上で、シナリオを想定すると、中国が最後の訪問国である必然性が何かをどうしても考えてしまう。日本から戦争と経済に対する協力を引き出し、最大のイスラム国家であるインドネシアでテロ対策の検討をし、韓国でアフガニスタンへの派兵の可能性を打診し、それを携えて中国と最終的なアジアにおける安全保障と経済対策を討議する。このシナリオは、うがった見方であろうか。

一方で、米国の優先課題に対し、クリントン国務長官が日本にどのような協力を要請したかが、国民としては知りたいところである。マスメディアには、最低限、今回の訪日における各会見の主な議題ぐらいは、取材し、情報提供してほしいものだ。ただ単に、正確な行動スケジュールを追うのではなく、その背景に何があり、どのような意図や目的があったかを取材・分析していただきたい。そうでなければ、今回のクリントン国務長官訪日の真の意味を見誤る可能性があるといっても過言ではない。

それにしても、クリントン国務長官の絶え間ない笑顔や質素な服装は、米国の厳しい現実を踏まえた、実に見事な演出といわざるを得ない。このしたたかさも参考にしたい。

前にも触れた、米国駐日大使に内定しているジョセ・ナイ博士は、ソフトパワーの重要性を説いている。来日が決っているヒラリー米国国務長官もこのことに言及している。

ナイ博士はこのソフトパワー以外に、“コンテクチュアル・インテリジェンス”という概念を打ち出し、これが世界のリーダー達に欠かせない要件であると説いている。

これは定義が難しいが、あえて言うとすれば、「全体像をおさえて、物事の本質を見極め、適切な判断を迅速に行うための能力」といえる。この能力を我国の心ある政治家にも備えてもらいたいものである。

ところで、最近、オバマ米大統領の選挙キャンペーンに携わった人が、日本の経済界の米国に対する姿勢に危機感を抱いている。それは、どのような背景や理由があったにせよ、日本経団連のニューヨーク事務所が最近閉鎖され、これが、日本の財界人の米国に対するメッセージであるとワシントンで受け取られていることへの危機感である。

日米が協力して直面する金融危機と未曾有の景気後退を解決するためには、日本の財界のリーダーにも、ナイ博士が提唱する“コンテクチュアル・インテリジェンス”を求めたいものである。

ますます元気がなくなる日本で、「リスクテイキングを果敢にやれ」というスローガンがよく聞かれる。「リスクのないところに益なし」ではあるが、闇雲にリスクテイキングすることは、それこそリスクが大きい。リスクの単純な定義は、「起こり得る損害」、「起こり得る損傷」、「起こり得る損失」の3つとなる。3つの違いは、損害はDamage、損傷はInjury、損失はLossである。余談だが、機会損失はOpportunity Lossとなる。

リスクを取るということは、上記のような現象を想定して、それらに有効な対策を講じるという一連の行為を指す。リスクの取りっ放しではいくら経営資源があってももたない。リスクへの対応は、上記の損害、損傷、損失を起こり得る現象として想定することからはじまる。

例えば、金融商品を購入する場合では、損失が発生することがリスクになる。金融用語では、リスクヘッジといわれる対策を講じることになる。これは常識であるが、金融機関などは主に実施しているものの、個人では疎かになっているケースがほとんどではないだろうか。

また、株式投資も、リスクを取る際の一連の行為が必要となる。この場合、株式の相場の下落を予防する対策はない。したがって、株価が下落した場合の状態を想定し、どのような対応をするかを予め決めておくことが、リスクテイキングの重要な要素となる。

このようにただリスクを取るだけでなく、起きた場合の対策を含めなければリスクテイキングにならないのである。この場合の対策は、発生するかもしれないダメージやロスを最小限に抑えるための備えである。株式投資で言えば、持っている銘柄が○○%下落したときに、発動するコンティンジェンシー計画を持っておくである。このコンティンジェンシーは当然状況に応じて見直す必要がある。

日本人がリスクテイキングをしない背景の1つは、このコンティンジェンシーの発想が薄いからである。つまり、「問題が起きたらいけない」と考え、思考停止に陥ることにより、結果的にリスクを取らないことが安全と考えてしまうのである。例えば、株式で言えば、相場の下落を防ぐ予防対策はなく、上記のコンティンジェンシーの発想がないために、ますますリスクテイキングしないことになるのではないか。

もう1つは、「問題を起こしたらいけない」という非現実的な発想が根底にあることも否めない。直近の例で言えば、海上自衛隊の艦船は絶対に事故を起こしてはいけない。原子力発電所は、絶対にどんなミスも起こしてはいけない。大企業は絶対に不祥事を起こしてはいけない、などが挙げられる。

こうした発想が起こるのは、原子力発電は「危険か、安全か」という設問をすることに原因がある。当事者がこのような質問を受ければ、当然「安全」といわざるを得ない。安全といってしまっては、事故が発生した時点でそれを開示することはできなくなる。すなわち隠蔽することとなる。

この発想を転換するためには、設問を変えなければならない。例えば、「危険か、安全か」から、「安全を確保するためにどのような対策を講じているか?」、「万が一事故が発生した場合の対策にはどのようなものがあるか?」などに変えることである。起こり得る問題を未然に防ぐための予防対策と、発生したときのコンティンジェンシー対策を個別に設定することが肝要である。

論理的な思考法のコツの1つは、「目的と手段を同時に考えないこと」である。我々は意思決定をする際に、どうしても「手段に短絡する」クセがあることを自覚したい。

例えば、何か決める状況があったとしよう。企業であれば、「組織の統廃合案を決める」や、「大型設備の発注先を決める」などである。個人であれば、「住宅を購入する」、「長男の進路を決める」など、さまざまな状況が想定される。

上記の状況で、手段に短絡するということは、組織であれば「最適な組織を作り上げる」、
設備であれば、「実績のあるA社か、B社のどちらにするか協議する」、住宅であれば「Aマンションにするか、Bマンションにするか話し合う」、進学であれば「入学の可能性があるA大学かB大学のどちらに進学するか検討する」となる。

本題の「目的と手段」を同時に考えて、満足の行く結論が得られれば、論理的な考えは不要である。しかし、多くの場合混乱や堂々巡りを繰り返し、意見の対立を招く。

長男の大学進学のケースを考えてみたい。親は「A大学」を薦める。本人は考えがまとまらない。教師は「B大学」がよいと言う。この「A大学」、「B大学」のどちらにするかという発想自体が、手段や選択肢への短絡なのである。しかも面倒なことに、本人は考えがまとまらない。このようは状況を論理的に「捌く」ためには、「何を決めるのか」を整理してみることが必要だ。

「長男の進学する大学をどうするか」であれば、「大学を選ぶこと」が決めることとなる。これを目的に設定することが一般的かもしれない。ところが、これで大学を決めても、問題の解決にはならない。何しろ当事者である長男は「考えがまとまらない」である。本人は大学進学を躊躇しているのかもしれない。大学以外の選択肢を模索しているのかもしれない。

そうであれば、発想を転換しなくてはならない。つまり、4年間で何を達成するのかという、「目的」や「目標」を考えるのである。その際、「どの大学に進みたいのか」という「手段」に関する発想は禁物である。「4年間で何を達成するのか」という「目的」を考えることが合理的である。

「自分の手で金を稼いでみたい」、「社会生活を体験したい」、「○○の経験がしたい」、「自分を鍛えてみたい」、「将来なにをするかを決めたい」、「自由が欲しい」――。一見矛盾するようなことでも、本人が達成したいことであれば、それを「目的」として、実現する「手段」を考えなければならない。

「海外留学・研修」、「アルバイト」、「NGO活動」、「無銭旅行」、「農業従事」、「専門学校」、「大学進学」、など、さまざまな選択肢が考えられる。これは、1つの考え方を示したものであり、必ずしも現実的でないかもしれない。しかし、ものごとがなかなか決らない時には、「目的」と「手段」を分けて考える。そして、「手段」の前に「目的」を設定することが論理的で、賢いアプローチなのである。

米国駐日大使に内定したジョセフ・ナイ氏は、昨年12月の日経新聞主催の「米新政権と日米同盟の課題」というシンポジウムに講演者として出席している。筆者もそのシンポジウムに招待され、参加することとなった。

ご存知のように、ナイ博士は『ソフトパワー』という著書を世に出しており、その中で、ハードパワーとソフトパワーがバランスよくマネージされる状態を「スマートパワー」と呼んでいる。ハードパワーは軍事力であり、ソフトパワーは圧力や強制的な手段を使わずに相手との合意を取り付ける力と、筆者は理解している。

このソフトパワーの考えの延長線上に、日本の外交戦略があるのではないかと思う。日本は憲法9条があり、唯一の被爆国という事実があり、非核三原則を標榜している。これをソフトパワーとして活用することで、国際社会に対して新しい次元の発信ができるのではないかと考えている。

防衛省は、Department of Defenseである。憲法9条下の防衛省の機能は、武力による自国防衛と同時に、ナイ博士が言う、ソフトパワーと組み合わせることが、理想ではなかろうか。それが実現すれば、日本の防衛費は、軍事力強化のみに使うのではなく、ソフトパワー強化にも充てられる。具体的に言えば、国際摩擦や紛争を解決するためのソフトパワーを研究し、確立するための費用を、防衛費の一部として位置付けるのである。これに伴い防衛省の概念も、従来のDepartment of Defense からDepartment of Peaceに発展的な変更できるのではないか。

このような発想を実行するためには幾多の問題があるかもしれないが、世界に類のないチャレンジとして、日本から発信できるメッセージとなりえるかもしれない。外交は外務省、防衛は防衛省という縦割りの発想を転換し、日本の国としての新しい防衛に対する概念を生み出し、世界に堂々と提示していただきたいものだ。

激動の時代を迎えるにあたり、新年のご挨拶を申し上げます。今後とも飯久保廣嗣のブログをよろしくお願いいたします。さて、新年最初のブログは、「日本の問題解決力」について、ひと言意見を述べたいと思います。

◇◎◇

前駐米日本大使で現プロ野球コミッショナーの加藤良三氏はある講演会で、「米国の強みの1つとして“問題解決能力があること”を認めなければならない」と、述べている。そして、チャーチルの発言を引用して、「アメリカは大事なとき、ここぞという時に正しい決断をする国だ。但しそこにたどり着くまでにはあらゆる間違った選択肢を尽くすところが問題だ」と、指摘している。

また、昨年、ある民放の討論会で、八代政基新生銀行社長は、「日本経済再生のためには、
あるべき姿に対しての議論も重要だが、直面している問題を明確にして、先送りすることなく解決することも重要だ」と、提言している。そして、ソニーの創立者の一人である盛田昭夫氏は、「日本はプロブレム・ソルビング(Problem Solving)の力をもっとつけなければならない)と、生前に度々言われた。

学者、識者は、現状に対する論評やあるべき姿についての議論はなされるものの、具体的な問題解決の議論はなされないケースが多いのではないか。すなわち、

・あるべき姿と現実の間にある諸乖離や諸ギャップを見出す
・それらを克服し、目的を達成するための諸解決策を考え、そのなかからベストの選択肢を選ぶ
・それを、八代社長が言われるように先送りする事なしに実行する
・その際、実行した場合に起こるかもしれない諸問題点を想定し、諸対策を予め講じておく(問題が起きてからどのように対応するかを論じるのでは遅い)

などのアプローチやプロセスが欠落しているため、日本ではここぞの正しい判断ができず、問題解決が遅々として進まないことが多いのである。

「日本はアメリカの言いなり」と未だに言われる理由にも、日本が問題解決者としての主体的な提言や、日本独自の問題解決に対する選択肢を提示していないことが、その背景にあるのではないだろうか。米国や世界社会の日本への要求に対し、いたずらに“NO”、“NO”の繰り返しでは、問題解決者として同じ土俵に乗ることはできないのである。

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