飯久保廣嗣 Blog

2008年10月27日

2008年10月23日付けの日経新聞朝刊のトップ面に、医療問題についての記事があった。これは医療事故に関する調査方法が迷走しているといった内容である。その中の一部を引用したい。

厚生労働省医療安全推進室長の佐原康之(44)は「日本の医療制度は医療事故があることを前提に設計していなかった」と認める。

この引用からは、日本人の思考様式の欠陥が如実に現れている。それにも関わらず、読者も記者も事の重大性に気が付いていないように思える。

「医療事故があることを前提に設計していなかった」ということは、次の3つの重大な思考上の欠陥を生む。

第1に、「もし事故が起きた場合に、隠蔽せざるを得ない」という、組織の隠蔽体質を醸成してしまう。

第2に、「発覚したときに、組織の防衛のために、組織ぐるみで徹底的な否定に走る」という現象を起こす。

第3は、「再発防止の方策が、中途半端なものになる」。これは、事故の真の原因を追究する姿勢が薄いために起こる。

例えば、自分の子供が期末試験を受ける際に、親が「絶対に及第点を取れるね」と子供に確認したとする。これは「事故が起きない」ということを前提としていることと等しい。もし及第点を取れなければ、子供は成績表を隠す。隠し通せなければ、理由をつけて自分の非を認めない。そうなると、「なぜ及第点が取れなかったか」という分析よりも感情的に「追試験はがんばりなさい」と念押しすることになり、おそらく本当の問題が未解決のままとなるだろう。

これは、「日本人の完ぺき主義」、「ミスを認めることを恥とする文化」、「敗者復活の発想が薄いこと」などが背景にある。まずこのような思考様式の特質を認識することから始める必要がある。特に、政策や法律を作る中央官僚や政治家に、強く認識を持ってもらいたいものだ。

「問題は起こり得る」という前提から諸対策を講じていくほうが合理的であり、抜け漏れが防止でき、発生時の対応が容易になる。このことは、企業においても問題点を予め想定することにより、陰湿な内部告発的な動きを防ぐことにもつながる。告発する内容が予め想定されていれば、もし発生しても告発する必要性はなくなる。つまり、「このような問題が起きるかもしれない」とガラス張りにし、予め対策を練っておけば、問題発生時にその対策を実施すればいいだけの話ではないだろうか。

無論、実態は問題が錯綜し、複雑化するのが現実だろう。しかし、このような発想法を意識していれば、問題解決や意思決定のコスト削減につながるのではないか。

2008年10月20日

10月16日の米国大統領候補の最終ディベートをサンフランシスコで聴いた。我国のメディアはテレビ討論と報道しているが、その実態はディベートである。これは特定の課題について2人の大統領候補が1人の司会者の質問に対して討議を展開し、その討議を第三者が評価をして、どちらが優勢であったかを判断することで完結する。

すなわち、端的に言えば、個別のテーマの両者の主張に対する優劣を聴衆が決めて、それを定量化して市民に提供するのである。オバマ53%、マケイン48%などと発表される。

ここで注意したいのはこれらの数字は世論調査の支持率とは全く違うということである。だから我々が日本で数字だけを見て単純に支持率と考えることは危険なのである。また、このディベートの判断は、開催された会場以外に、各地でなされることにも注目したい。

民主主義における選挙に対する有権者の姿勢には、かなり真剣なものを感じた。ディベートにおいては、1つの案件に対して両者が見解を述べて、それに両者が反論し、相違点を浮き彫りにする。ほとんど感情的なやり取りはなく、聴いていて実に知的である。この冷静で知的で本質に迫る理性的な両者の主張を、司会者が視聴者の立場になって、巧みに捌くのである。

米国の大統領選挙からは、直接選挙制という違いがあるものの、最近の日本の選挙には見られない姿勢を感じる。国民と国家が直面する重大課題に対して、候補者の立場と主張(ソリューション)を明確に開示している。

選挙をする際に、候補者が何を考え政治理念としているか、候補者間の違いは何かなどの情報がほとんどないままに、投票しなければならない日本の現実が、国民の政治離れの原因になっているのかもしれない。政見放送や立会討論会(討論会は一部かもしれない)が選挙直前になされるものの、そこで争点や考え方の違いが浮き彫りになることはほとんどないのではないか。候補者に対して質問をする機会もない。このような状況で有権者はどのようにして主体的な判断をすればよいのか。

米国の大統領選並みにとは言わないが、小選挙区制をとる日本において、選挙区ごとに候補者を集めた本格的な立会討論会を複数回開催することを考える必要がある。またその様子や結果を有権者に着実に伝達できるような仕掛けも重要。これらは日本の民主主義の健全な発展のために不可欠だ。

今回の米国大統領候補のpresidential debateを聴いて、そう感じた。念を入れて特筆したいことは、両候補も国民と国益に対してどのような立場で政治に取り組むかについて、非常に明確な主張をしていたことである。
なお、日本では両者間、両党間にかなりの中傷合戦があったと報道されているが、これは、両党が展開するテレビ広告でのことである。presidential debateではこのような中傷は面と向かってはなかったことを最後に付け加えておきたい。

2008年10月14日

日本の企業経営が大きな転換期を迎える中、戦後の知識偏重社会の限界を多くの人が感じている。「追いつけ、追い越せ」の時代では、欧米の先進国に問題の答えがあり、これを「知識」として輸入し、問題解決を図ってきた。それと同時に、問題解決の名人が組織には存在して、彼らの名人芸とでも言える判断力によって適切な行動が可能であった。

しかし、キャッチアップの時代は終わり、我々は主体的に意思決定をする必要性が生じている。それにも関らず、科学的で体系的な思考体系が確立されていないため、未だに成しえていない。それが社会的な混乱の背景である。その結果、変化への対応、リスクへの事前対策、意思決定などが極端に遅延し、問題の先送りが起きているのが現実ではなかろうか。

人類の歴史は問題解決の歴史である。今は、従来の名人によるKKD(経験・カン・度胸)では適切な判断業務ができないということになり、昨今は「論理思考による問題解決」がブームである。米国の科学的な経営技法を取り入れ、日本的経営を変革しようと社会を挙げて取り組んでいる。「経験とカンと度胸で経営判断をすることは危険であるから、論理的に思考しろ」というわけである。

米国流経営技法の1つの見方を端的に言うならば、「経営が直面する全ての課題を論理的に分析し、高等数学とコンピュタを駆使して、合理的に問題を解決しよう」ということになる。ただし、この技法がオールマイティであるかのような神話は、昨今の米国発の経済危機で見事に崩れ去った。

「論理と合理性は万能であり、KKDは不要である」かのごとき風潮に筆者は疑問を持つ。経営上で重要な案件に際し、「論理的に分析して出された結論」と、「経験ある経営者の判断」が対立したらどうするのか。米国ではおそらく論理的な結論を採用するであろう。

だが、高度で複雑な方程式と膨大なデータを駆使して確立された「財政工学」が、今この瞬間に何を社会にもたらしているかをみれば、経営の判断業務にKKDも必要なことは明白である。

従って、米国流経営技法万能主義が崩れた今、必要なのは、日本的なKKDも生かした意思決定である。すなわち、従来名人芸とされてきたKKDを誰でも使えるように標準化し、重要な経営場面でツールとして活用できるように整備することがポイントとなる。

日本の社会が支払っている「意思決定のコスト」は他の主要国に比べて桁外れに高い。その結果、日本の国際競争力は、スイスのIMDによる「2007年世界競争力年鑑」によれば、世界50カ国の中で24番と低迷している。従来からの論理的思考に加え、KKDも標準化して取り入れ、新たな意思決定の技法として確立・普及させることが、焦眉の急だと筆者は考える。そうした独自のアプローチこそ、競争力向上の源泉となる。

2008年10月06日

「知識」と「智恵」は区別する。これはよく言われることだが、智恵とは何かをもう一度吟味してみよう。また、辞書を持ち出して恐縮だが、新潮国語辞典(昭和40年11月30日発行)によると「物事をよく判断し処理する心の働き」である。また、仏教では「物事の実相を観照して、惑いを絶滅し、菩提を成就する力」とある。

また、広辞苑(昭和57年10月15日版)には、「物事の理をさとり、是非善悪を弁別する心の作用。物事を思慮し、計画し、処理する力」とある。お隣の中国では知識と智恵ではなく、知識と智力とを区別して、智力の定義を「充分な知識がなくても問題を解決する力」としていると、以前このブログに書いたことがある。智恵にしろ、智力にしろ、それらの目的は人々や人間集団の存続のための問題解決である。
そこで、今回は我々が智恵を使い、物事をよく判断し処理する場合に「気をつけなければならない傾向」について記す。結論や決定の「不良」を極小化するために注意するポイントである。決定の不良は製品の不良のように目に見えないが、大きな不良処理には莫大なコストがかかる。

そのポイントとは、「智恵の敵は短絡思考」ということである。先入観であったり、思い込みであったり、特定の情報に影響されて導き出される結論こそが、意思決定の不良を生む主な原因なのである。その結論を検証しないで対策を打つのは、当然のことながら有効ではなく、間違った対策となって問題が拡大する場合もある。

短絡思考の主な例の1つは、「問題の原因に短絡して、対策を講ずること」といえる。よく見れば売れている商品もあるのに、「今年度の売り上げ不振の原因は当社の営業力の低下にあるので、それに対して対策を早急に打つ必要がある」といった類の結論を出す。これは、経営資源のムダであり、企業の収益に影響する。

短絡思考のもう1つの主な例は、「意思決定において、手段や方法、選択肢に短絡すること」である。「ある有力者が推薦している、過去に成功した、だからうまくいく」という短絡である。この場合、「デメリットの分析を無視している」、「選定基準の設定が適切でない」など、意思決定の内容を充分思慮しないで、決定し実行してしまう傾向が現れる。しかも、もしうまくいかない場合の「予備計画」もなく、ひたすら頑張ってしまう。これを継続した場合のConsequence(ある行動を実施した結果、起こり得るマイナス)は自明である。

短絡思考に陥ってないか――。意思決定や問題解決の場面では、常に意識したい点である。