飯久保廣嗣 Blog

わが国では、何かまずい事が起こると、ほとんどの場合、組織の責任者が報道陣に対して、
深々と頭を下げる。このグローバルな社会でこのような光景に出くわすのは日本だけである。

数年前、フランスでコンコルドが離陸に失敗して墜落した。また、米国のスペースシャトル「コロンビア」の事故があったが、組織のトップが謝罪することはなかった。

なぜこうも違うのだろうか。それは、日本人と欧米人とでは、リスクに対する考え方が全く異なるからである。欧米人にとって、リスクとは将来起こり得る「損傷、損害、損失」である。そして、これらの現象は「起こり得る」と考え、それらへの対策を講じておくことが習慣化されている。さらに、事故やトラブルが発生してもそれらへの対策にヌケ、モレがなければ、謝罪することはない。

これに対し、日本人は起こり得る問題を取り上げて、対策を考えることを意識的にしない。だから、事故や問題が起こると、幹部が頭を下げて、お茶を濁す傾向がある。社会も謝罪しているのだから、よいだろうと言うことになる。これでは、原因の究明や、再発防止が明確にならないことになる。「二度とこのようなことが起きないようにする」で決着してしまう。このような発想は、国際社会で決して通用するものではない。

では、リスク対策とはどういうものなのか。リスク対策の1つは、発生するかもしれない問題の発生確率を下げるための対策である。すなわち、発生の原因になるものを想定して除去する対策、つまり発生そのものを回避する対策である。この対策が「予防対策」と呼ばれるものである。

もう1つは、万一問題が発生した場合にその影響を小さくするための対策である。これは、「コンティンジェンシー対策」といわれているものだが、日本では、これに対する日本語の適切な訳がないほど注目されていない。状況によって、「有事対策」、「予備計画」、「緊急時対策」、「発生時対策」、最近では「セーフティーネット」などといわれる。このコンティンジェンシー対策を意識することが、グローバル経営で企業の利益に大きく影響を与える時代になってきていることを認識したい。問題が起こってから対処する方法を考えるのでは、競争には勝てない。

このようにリスク対策にはこの2種類がある。経営そのものや所定のプロジェクトを成功裏に実行するためには、この2つの対策がともに必要になる。ただし、ここで注意すべきは、経営資源の浪費にならないためにも、過剰対策を避けなければならないことだ。過剰対策は組織の競争力を損なうことになるので合理的ではないことを、最後に強調しておきたい。

日本にとって非常に重要な選挙が来年にも実施されようとしている。

では改めて考えたいのだが、「選挙」って何だろう?

それは、「国民に代わって国政を任せる人に投票する」ということだ。では、投票するってことの本質は何だろう? それは、「良さそうな人を選ぶ」ということだ。

さて、その「良さそうな人」とはどんな人なのかな。そこがよく分からない。そして、「選ぶ」というのはどんな行為なのだろう。日本人も選挙に関してこれらの本質を考える必要があると思う。

「見た目や性格が良さそうな人だから」だけで、国会に送るということが、どんな結果を生んできたか、よく考えてみよう。国民不在、国益不在、国力の低下を招いている。

選挙は投票すること。投票することの本質は「選ぶ」こと。選ぶためには何が必要か。その人の経歴や過去の実績、功績を知らなくてはならない。その情報をどうやって国民が知ることができるのか。

例えば、自分は「山田太郎」に投票する。ではなぜ、山田さんなの? 「良さそうな人だから」、「人に頼まれたから」、「なんとなく」、「有名人だから」、「テレビによく出て発言するから」、「前にも投票したから」、「代議士の子供だから」、「人相が良いから」、「熱心だから」……果たして投票に対する基準がこんなものでよいのか。

選ぶということは、複数の候補者を比較して1人を決めるということ。従って、比較するための、基準、「物差し」が必要だ。例えば、「自分の信念があるかないか」に対して、山田さんともう1人の中村さんはどうか。その他「カネにきれいである」、「利権をむさぼっているか」、「選挙献金の方法は?」、「国会での主張は?」など、比較することを考えると、「なぜ、山田さんなのか」に対して、答えることが出てくる。つまり、「山田さんは、信念があって、カネにきれいで、選挙献金はガラス張りで、利権には関係ない人だから」と、いうことができる。

しかし、これらの情報を得る方法がないのが現状である。あるのは、限られた政治家が出るテレビ番組と新聞記事ぐらいだ。選挙を真剣に考えていた時代は、自らの政策を披露する「立会演説会」が数多く見られたが、今はほとんどない。これらを復活させて我々が国政を任せる候補者が、どのような能力があり、どのような思想を持ち、どのような政策を推進しようとしているのかを知らしめる方法を講じないと、日本人が日本の選挙、日本の政治を「考える」ことを放棄してしまう集団になってしまう。いや、その放棄は既に以前から始まり、もう重症なレベルまで来ている。そのことを深刻に受け止めたい。