飯久保廣嗣 Blog

2010年02月02日

自己宣伝で恐縮であるが、昨年9月に日本経済出版社から『組織で使える論理思考力』を上梓した。友人の元日経役員から、「いい歳をして出版するとは立派だね」とお褒めの言葉をいただいた。人々は企業や組織から引退するものの、人生から引退してはいけないと思う。

特に、この激動の時代に先達の実績や智恵を伝承していくことは、社会から引退し若干自由な時間がある世代が担う社会的責任であると思う。この責任は、物事の本質に関わるものであり、社会的な地位とは無関係の人間の営みの中心をなすものである。その伝承を怠れば、国の民度が損なわれることになる。

ところで、民度を定義するとどうなるだろうか。私は、「国民が認めた常識や規律がどの程度守られているかを表わすもの」であると考える。

規律違反者に対して無関心でありあまりにも寛容になる状態は、世の中の秩序が崩れていく前兆といえる。法律違反者に対しての罰則規定が甘くなれば、犯罪発生の抑制力が弱まることになる。

例えば、日本では脱税に対する処罰が他の罰則に比べて甘い。経済犯罪に対しての罰則も同じことが言える。民度の高い先進国では、法律の違反者に対しては徹底的に追及をする。

以前、私の知人の息子が米国の州議会議員となり、財務担当として活動していた。善意で州の資産運用をしたが、リーマンショックで損失が発生した。この件では公の資金を善意で運用したにも関わらず、流用したという嫌疑をかけられ、裁判に付され、その結果、7500万円の罰金と懲役18年が言い渡された。現在上告中だが、この青年の社会的信用や政治生命は絶たれてしまった。

欧米では、このように経済犯罪と判断される行為に対しては厳しい罰則規定があり、このことが、犯罪の抑止力になっている。そしてこの抑止力こそが、民度を高める一助となっているのである。

話を戻そう。先達の智恵を後世に伝えることも、民度を保つ活動につながるのではないだろうか。わが国が世界社会において、幾ばくかの敬意を払われるためには、心ある国民が「傍観から行動へ」という意識を持ちたい。

第一線から引退した世代は旅行や趣味に忙しいときく。しかし、それらを満喫した後の人生の目標の1つに、我々の先達が大切にしてきたものを、次の世代に伝承しようという気持ちを持ち、できるところから始めてよいのではないか。

拙著の紹介に絡めて、書生のようなことを書いたが、たいした印税にもならない本を凝りもせず出版した次第である。ぜひ、ご一読いただきたい。