飯久保廣嗣 Blog

2008年05月26日

北京オリンッピックで大気や水質の汚染が問題になっている。日本も20年前には同じ問題が起こり、これを見事に解決した。問題が明確であって、達成するゴールが現実的であれは、解決することは可能である。中国でもいずれこの問題を解決することになるだろう。

ところが、である。わが国には、今、目に見えない“心理的な”環境汚染が充満し、閉塞状態に陥っている。

目に見える現象は放置しておくと、そのインパクトを観察できる。従って、対応することは比較的に容易である。現象に対する国民の認識、具体的課題設定、解決策、良識ある行動力、そしてそれを支援するマスメディアの力があれば解決可能なのである。

問題は、目に見えない“心理的な”環境汚染である。これには、多くの国民が漠然とした不安と焦燥、怒りを持っている。この環境汚染は、政界や中央官庁、そして企業やマスメディアの一部で顕在化している。だが、目に見えないものであるため、明確に認識することが困難になっている。そして、この見えざる環境汚染は確実に進行している。心ある国民は傍観をしていてはいけないと思っている。しかし、手の打ちようがないのが現状である。

この環境汚染に対応できる特効薬は見当たらない。心ある国民一人ひとりができることを実行していくことから始めていくしか、解決手段はない。「傍観から行動へ」、自らの態度を変えるのである。

行動の内容は、組織や個人の状況によって異なる。しかしながら、1ついえることは、「良識に沿った行動」であるということだ。「良識」とは先人が残した行動規範もその1つであろう。そして、良識とは国際的にみても、恥ずかしくない、威厳のある発想であり、それを基礎とした行動も、世界から尊敬を受けるものといえる。

政府が、外国との交渉で、円滑で友好的な関係に腐心し、国益を主張しない。また、企業では、著しく理念や倫理に反する行動が常識化している。こうした現状は、海外のメディアを通じては確実に報道されている。そう思うと、実に悲しくなる。国際的に評価されていた日本は、一体どこに行ったのか。

私は、日本人は世界に冠たる高い「人間の質」(Quality of People)を持つ国民であると信じている。

かつて、日本はQC運動による品質の高い製品で世界に貢献してきた。これからの日本はQuality Control of Peopleを展開し、品質の高い人材を輩出する国といわれたいものだ。それには良識に基づき行動する日本人を数多く世の中に送り出すことが肝要となる。

良識とはCommon Senseのことであると思う。初等教育の「道徳」の時間も、東洋的で日本的な意味を含んだCommon Senseを認識させることを目的にしてはどうか。国際的に通用する日本の「良識」を定義し、それを教える。科目名も「道徳」ではなく、「良識」の時間とする。そう位置付ければ、反対する人は少なくなくなるのではないか。

2008年05月19日

わが国の食の安全が問われている真っ最中に、米国政府がクローン牛の日本への輸出の将来的な可能性を検討するよう、日本政府に非公式に打診しているとの報道があった。例の「BSE問題」が依然として解決していないのに、である。

これに関し、日本政府は「体細胞クローン牛から生まれた次世代牛について、一般の牛と比較して生物的な差異はない」としている。これは、農水省所管の研究所の調査結果を受けていると報道されていた。

今後、日本の国民は、「アメリカのFDA(米国食品医薬品局)と日本の厚労省が問題ないと言っているのだから心配ない」と言われて、「ああそうですか。わかりました」となる可能性が高いと、私は思っている。まさに、思考停止に陥ってしまうのである。

このやり取りは、日本人の思考様式に主な原因がある。権威者が「問題なし」といえば、そこから先に発想を展開させようとはしない。あらゆる可能性を考えることは面倒だし、お上が言っているのだから、まあそうなのだろうと、盲目的に信じ込んでしまう。さらに、そう判断した相手に対して、疑問や質問を投げかけたり、反論したりすることは、「失礼になる」と思い、考えることを自粛してしまうわけだ。

そして、「もし、なにか不具合が起きたら,総力を結集して対応すればよい」という思いに至る。この日本人独特の思考様式から脱却しない限り、日本は世界社会でますますバカにされることになるのではなかろうか。

そこで、一国民として、日本政府にお願いしたいことがある。本件の日本政府の対応として、「検討は進めます。ところで、もし、クローン牛から問題が発生したら、どんな影響が出て、どのくらい危険なのですか」と、米国側に確認してほしいのである。

また、米政府は米国民に対し、クローン牛の市場への販売を検討していることを、いつの時点で、どのような方法で発表し、どのような反応が消費者からあったかも、確認してほしいところだ。まさか、米国市場に発売する前に日本人にクローン牛を輸出するつもりではないだろう。日本政府が正確に事情を確認しないで、メディアに発表をすると、「米国はけしからん、日本市場を実験台にするのか」という誤解すら招く。

さらに、「万が一日本社会に損害が出た場合、どのような対応や補償をしてくれるのですか」と、問いただしてほしいのである。

将来起こりうることを予測し、その原因を想定し、それらを除去したり、問題が発生したときの影響を最小化したりするための対策を講じておく。この発想は世界の常識である。今回のクローン牛に対しても、改めてこのことを肝に銘じたい。

2008年05月12日

中国の胡錦涛国家主席が来日し、日中両首脳が共同声明に署名した。両国の相互信頼の確立は永い目で見なければならないが、中国が日中友好協力関係の強化を打ち出していることは、注目すべき点である。日本人の一人として今後の展開を見守りたいと思う。

しかし、「共同宣言」なるものについては、一言申し上げたいことがある。これが、当たり障りのない外交辞令的なものから、一歩前進した具体性のあるものにならないかと思うのである。過去の歴史や現在存在する諸問題の認識に対する両国の見解や表現方法が穏やかになったことはよい。だが、日本としては、建設的で相手に感銘を与えるような発想を共同宣言に盛り込んで欲しかったと思った。

お互いが納得できる提案を日本が考える際に、まず、どのような目的の達成を目指すか。また、両国がクリアしなければならない項目は何かなどを明確にして、検討をし、考えを構築してみれば、より効果的で意味のある「共同宣言」になったのではないか。

例えばその目的やクリアすべき項目としては、「日中の国民が諸手を挙げて賛意できること」、「アジアから世界社会にインパクトを与えられること」、「長期的に安定して展開できること」、「世界に前例がない新規性があること」、「両国が持っている資源の活用になること」……などを挙げることができるだろう。

このような発想からでてくる構想は、例えば、「世界で発生する地震、津波、台風などの天災に両国が協力して人道的な救援・支援活動を展開する機構を立ち上げる」といったものかもしれない。

こうした活動には、両国の若者を活用することも一つの手である。人に対する優しさ、建設的な活動に参加する歓びを、未来を担う若い世代が一致団結して協力することで、分かち合うのである。

そして、日本の自衛隊と中国の軍隊を平和な目的や人道的な救済支援に使用することができたら、両国の世界社会への画期的な発信になるかもしれない。このような機構は西欧にはあるかもしれないが、まだ、アジアにはない。

2008年05月07日

論理思考、クリティカルシンキング、科学的思考法――。これらの考え方は世の中の関心を集めてきた。これは専ら企業や組織に属する人たちを対象に語られてきた。しかし、合理的な考え方というのは、ある年代の人々のみに限定するものではない。

ちなみに、合理的な考え方というのは、論理的で、体系的な、効率のいい、ものの考え方のことである。1996年発刊の第1版における「思考」の定義には、優れた表記がある。それには、「問題または課題に出発し、結論に導く観念の過程。象徴的なのが特徴。或いは、概念または言葉などによる問題解決の過程」とある。これは思考の過程(プロセス)を重視した定義であり、極めて的を得た表現といえる。

この思考する力を、養うためには早い段階からの環境作りと指導が必要だ。これを促進するためには2つの側面がある。1つは学童・生徒が発する「なぜ」という質問に、丁寧に答えることではないだろうか。例えば、夏休み前に小学生が先生に、「なぜ、この宿題をする必要があるのか」という質問があったとしよう。これは、物事の根拠をただす質問であり、極めて重要な「ティーチング・オポチュニティ」であることを認識したい。

2つ目は、学童・生徒をして、いかに考えさせるかという観点に立って、「質問」を親も先生も工夫することである。これは事実関係を確認する質問とは、基本的に違うものと捉えたい。例えば、歴史で、「日露戦争の年号や詳細な戦績」を聞く質問は、単なる知識を問うものでしかない。

これに対し、「なぜ、日露戦争は勃発したのか」という質問は、物事の本質を考えさせるためのものである。この違いを認識して使い分けたい。言い換えれば、“What”、“Where”、“When”に関する質問と、“Why”についての質問の違いである。子供は実は、“Why”の質問をするのも、答えるのも得意なのである。その芽をつぶすと、自分自身で考えること=思考力を持たない大人になってしまう。日本社会にとっても、憂慮すべきことではないだろうか。