飯久保廣嗣 Blog

2009年05月26日

乱世の時代には国語が乱れる現象が歴史的にあったかどうかは別問題として、社会通念やルールにまで影響を与える「不思議な日本語」が横行している。そのなかで2つのことを取り上げてみたい。ひとつは「失脚」であり、もうひとつは「理解を求める」である。

安倍晋三元総理に対し特に恨みはないが、あのような経緯で国の最高責任者としての責務から離れた場合、その報道の表現のひとつとして「安倍晋三総理は失脚した」とあっても良いのではないかと思う。これに異論があるかもしれないが、少なくとも国際社会において最高責任者が納得できるような根拠がなく辞任することは、「失脚」と言われても仕方がない。

同じようなことは中川昭一元財務大臣にも言える。マスメディアはこぞってローマにおいての醜態を批判し報道した。この時点で、中川元大臣には誠にお気の毒ではあるが、政界から「失脚」したと海外の常識や社会通念は判断するのではないか。一方で、日本のマスコミは、性懲りもなくこれらの人物を再三登場させることに全く問題意識を持たない。特にテレビは視聴率を上げるために、時の人として何度も登場させる。このことのマイナスをよく考えたい。自国の恥を世界に積極的に売り込んでいるようなものである。

ところで、「理解を求める」という報道も横行している。例えば、わが国の高官が外交交渉において相手国との会談後、わがマスメディアは次のような表現を用いることが多い。「○○国の担当大臣に面談し、理解を求めた」という表現である。

常識的に考えると、下の者が理解を求めることはあっても、上の者が下の者に理解を求めるという発想はあり得ない。理解を求めるという発想は、対等な立場を放棄したと思われても仕方がないといえる。

欧米諸国に対して日本は理解を求める立場が過去にあったことは事実である。しかし、最近の報道をみると、ODAなどで援助している国に対してもわが政治家や政府高官が「理解を求めた」という表現があり、非常に気になる。

「理解を求めた」ではなく、本来の表現は、相手に対して「代替案を示した」「主張した」「協議をした」「要請をした」「撤回を求めた」などが適当ではなかろうか。

いくら何でも、北朝鮮との交渉で相手に「理解を求める」ということはないだろう。それ以外の国との交渉も同じ姿勢が必要だ。理解を求めるという意識がわが国側に少しでもあれば、相手国につけ入れられることになりはしないかと憂う。また、日本の報道が本国に報告される場合、「日本が理解を求めた」という表現を直訳される可能性が高いことも、非常に問題だ。国やマスメディアのこうした姿勢が、相手国との対等な交渉を困難にすることを、今一度真剣に考えることが必要ではないだろうか。

2009年05月18日

それでは、具体的に英会話と論理思考の関係を、意思決定の場面を使って述べてみよう。下記はあくまでも基本的な考え方であり、このことを理解することだけで、英会話が飛躍的に向上するわけではない。若干のヒントになればと考えている。

意思決定のプロセスの定石は、①「何を決めるのか」(決定事項を確定し認識する)、②「その目的は何か」(求められる諸アウトプット)、③「他に方法はないか」(複数選択肢の示唆)、④「まずいことは何か」(選んだ選択肢の副作用)、となる。

①「何を決めるのか」については、例えば、組織の見直しでは、「最適な組織の再編成案を選ぶ」ということになり、また新規事業に関しては、「展開する事業領域を選定する」である。また選ぶという状況でなく、企画立案というテーマもこの範疇に入る。

②「その目的は何か」は、英語でいうオブジェクティブ(objectives)のことであり、例えば、組織の見直しであれば、「組織の生産性向上」、「責任分担をより明確にする」、「環境変化対応を容易にする」、「コミュニケーションを活性化させる」など、複数の項目が挙げられる。

③「他に方法はないか」は、1つの選択肢に短絡した場合、「○○会社の斬新的な組織を導入する」ということになり、これでは、発想の発展性が限定される。この発想を展開するためには、上記②のオブジェクティブをより満たすような、諸組織案を考えることになる。

④「まずいことは何か」は、ある組織案を選定して実施した場合、どのような副作用があるかを、想定することである。例えば、「△△組織案を採用した場合どのようなまずいことがあるか」について、多角的に起こりうる問題を想定し、必要であれば対策を講じていく。

上記のような考え方の段取りを頭に入れて、意思決定の場面に臨むとすれば、全体像が把握できると同時に、自分の発言内容やそのタイミングがおおよそ図れるようになる。このことだけで英会話が上達するわけではなく、反復訓練が必要なことは言うまでもない。

2009年05月11日

平均的な日本のビジネス人の基礎英語力(読み書き・文法)は、他国に比べて引けをとらないと思う。問題は、この基礎英語力が、コミュニケーションの手段としての英会話に結びついていないことである。

そこで、表題について実践に役立つような発想やヒントを提示したい。英会話の主な目的を大別すると、①よき人間関係をつくるための英会話力②会議などで議論をする場合の英会話力、そして、③グループで問題解決を図るための英会話力、となる。例えば、友人・知人との英会話は①であり、国際会議での議論に参画する際は②であり、国際的な場面での問題解決を進めるときには③となる。

ここでは、上記の②、③について若干の参考となる考え方を述べてみたい。このことは、基礎英語力をどのように生かしていくかということになる。ちなみに、われわれ日本人は、基礎英語力とともに、基礎的な論理力があることを認識しておきたい。この裏付けは、日本人は、技術力や数学・物理分野における能力が高いことということだ。

日本人の問題は、英語にせよ、論理にせよ、目に見える部分では能力を発揮できるが、目に見えない部分が暗算思考になっていることである。別の表現をすれば、問題解決力/意思決定力は一種の名人芸と捉えられている。名人芸は口伝・秘伝の領域であり、効率よく伝承していくことは難しいと思われている。この領域をモザイク社会の米国は共通思考方式の必要性から体系化したと考えている。

このようなことから、われわれの思考様式に体系化された論理思考を取り入れることにより、英会話力の強化につながると私は確信している。

では、なぜ論理思考力を高めると、英会話力が強化されるのか。それは、グローバルのデファクトである「論理思考」を自身の中に構築することで、国際的な場面においてどのような思考手順により議論が展開されているか、その大まかな道筋を読むことができるようになるからである。それによって、現在の英語力に関係なく、発言・発信することがより容易になるのである。

では例えば、意思決定の場面において、どのような思考工程があるのだろか。それは、次回に譲ることとする。

2009年05月08日

一昔前には、日本を含むアジア5カ国が国際社会における英会話力が劣ると言われていた。それらの国は、日本以外に韓国、中国、タイ、マレーシアである。

ところが、今日では、日本を除いて、他の5カ国は国際社会における英会話力が抜群となり、唯一日本は取り残されてしまった。韓国からは国連事務総長が出ている。中国、タイのテクノクラートの英語力は欧州に比べても引けをとらないレベルである。マレーシアは、元首相のマハティールの英語力が卓越している。なお、元々英語が公用語であるシンガポールは全閣僚の英語力が優れている。

それに対し、日本の実態は悲惨なものである。英会話ビジネスのみが脚光を浴び、レベルはアジアの中でも最低水準だ。この背景はいったい何なのだろうか。以下に挙げてみたい。

・英語教育が読み書き偏重であり、英会話を軽視してきた。
・英会話を教える教師の英会話力が低い。
・大学受験におけて英会話力のテストがない。
・人前で恥をかきたくないという、完ぺき主義。
・いびつな英会話ビジネスの間違った指導。

など枚挙に暇がない。しかし、このほかに言われてないことがある。それは、「英会話と論理思考の関係」である。

今日では、挨拶程度の会話は、なんとかできる水準に達しているが、会議や議論の場において、日本人はどうしても引けをとる傾向がある。その理由として大きいのが、短時間で自分の意見をまとめ、発信する力が弱いことである。

その原因としては、問題から結論に至る考え方の枠組みが整理されていないことが挙げられるだろう。この枠組みが整理され、自分のものになれば、英会話力も自ずと強化することにもつながる。

アジア諸国の飛躍的な英会話力の躍進の背景には、その国のエリートが海外での学習の中で、いわゆるクリティカルシンキング(論理思考力)を身につけ、それを活用することによって、英語による発信力が強化されるという、因果関係があると思われる。

次回は、この論理思考がどのように英会話力の強化に影響を与えるかについて、具体的に述べてみたい。