飯久保廣嗣 Blog

ここ一年は、日本と日本人にとって、不愉快なことの連続でした。景気、日米関係、中国との関係など枚挙に暇がありません。

その原因は、よく言われるように、国家戦略がないこと、国の形が見えないこと、この国をどうするのかが不明確であるということ、ではないでしょうか。

そこで、一国民として、ド素人の私がこの命題をじっくりと考えました。一国民としてこうあってほしいなという国家像です。人間、その気になって死ぬ気で物事を考えると、内容の良し悪しは別にして、何か出てくるものです。導き出されたのは、「平和貢献国家」という国民全員の賛同を得られるような発想です。

最終的にまとまっていませんが、以下に「平和貢献国家」の構想を記述します。

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平和貢献国家

・わが国の過去の国家戦略は、近代国家建設、富国強兵、戦後復興、経済成長でありました。

・日本の文化的・歴史的資産と国民性を考えた場合、それらに続く新しい国家戦略は「平和貢献国家」というのが相応なのではないでしょうか。

・「平和構想」、「平和協力国家」という国家理念は過去にもありましたが、単なるスローガンだけでは、説得力が乏しく、持続できるものではありません。

・この「平和貢献国家」という概念は、日本人の資質である「物事を丸く治める」、「契約社会よりも信用社会」、「対立や闘争よりも、話し合い」、「勝ち負けよりも和を尊ぶ(Win-Win)」といった背景から、生まれています。

・平和貢献国家を具現化するために不可欠な要素は、武力に依存することなく国際紛争を解決するための具体的なメソドロジー(方法、方策、理論、システムなど)を開発することです。従来の西洋的な発想では、「国防=軍事力」であり、国防予算はすべて軍事力増強に使われています。

・この西洋的な発想の限界を打ち破る考え方が「平和国家貢献」です。具体的には日本の国防費の一部を割いて、メソドロジーの開発に充てます。当然このメソドロジーには、国際社会にとっての新しい脅威であるテロ対応も含みます。

・具体的なメソドロジーの開発のために、世界の英知を集め、国家予算を投入して日本の国家プロジェクトとして展開し、その果実を全世界に供給します。

・この構想は、まさに国防の概念が、「Department of War」から、「Department of Defense」、そして、日本からの発信として「Department of PEACE」となる可能性を秘めています。日本の国防費は軍事費以外の平和貢献の具体的なツールの開発に資するというものです。これは、日本が世界に問いかける大きなメッセージになるでしょう。

・国民は、静的な文化や伝統という領域に加えて、現在国が何を世界社会にしているか、また、し続けるかといった動的な側面がほしいのではないでしょうか。行動が伴うことで国を誇らしく思う気持ちも生まれます。

・「平和貢献国家」が国のあらゆる重要な意思決定の指針となることができれば、国民の税金も有効に使われ、世界社会からも日本が目指すものが見えてきて、日本の国としての存在価値を高めることにつながるのではないでしょうか。

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以上が「平和貢献国家構想」の概要です。

日本人が、米国や中国に対等になるには、唯一の被爆国である日本が、世界の列強が未だに気が付いていない、そして、反対も無視もできない全く新しい世界平和の具体的な方法を国家プロジェクトとして発信し、行動することが必要であると考えます。

軍事大国の米国や中国に対して、「あなた方も国防予算の全てを相手を殲滅するための兵器開発に使うのではなく、予算の一部を充てて、紛争防止や紛争解決の具体的な方法を日本と一緒に開発しませんか、というメッセージを発信するのです。

新戦争形態のテロリズムに対しても、相手を殲滅するための高度な軍事技術だけでは平和は訪れません。テロの予防はその背景や原因に対策を講ずることが重要です。

日本人が本気になって、西欧的な国防予算の概念を変革するのです。この発想は、国の外交とは別の国防予算の範疇で対応するところに特徴があります。

「平和貢献国家構想」は、日本が世界に先駆けて、国防費を全て軍事力に充当するのではなく、その一部を割いて、戦争の発生を防止する方策、不幸にも発生した時の解決策に対する具体的な方策を、世界の英知を集めて開発して提供するという、極めて戦略的な構想なのです。

2010年8月号の『文藝春秋』の新聞紙上広告を見て驚いた。そこに「はやぶさは根性で飛んでくれた」とあるではないか。編集者でさえ、この見出しがいかに非科学的であるかを気がつかなかったのだろうか。科学の粋を集めた宇宙探査機が、根性で飛んだという発想は何を意味をするのだろう。

担当者が、あまりにも喜んだ挙句に、このような言葉が出たのであろう。それはよくわかるが、この見出しを付けた編集者が、いかにもドメスティックな日本的な発想の持ち主であると思ってしまう。

この「根性」をどのように英訳したらいいのだろうか。卑俗の言葉で根性がないことを“no balls”という。ballsが何を意味するかはご想像にお任せする。

それにしても根性で片付けられては、探査機の帰還を真剣に取り組んだエンジニアたちが浮かばれない。それにしても、海外メディアはこのニュースをほとんど取り上げていないのではないか。これが多くを物語っているのではないか。そして、はやぶさⅡに200億以上の予算が付いたとのこと。根性の対価としては少し高すぎるのではないか。

国民が天下りを認めるということを考えたことがあるだろうか。天下りはすべて悪であると、断定してよいものか疑問に思う。世の中に役立つ人材を活用することは、それなりの意義があるはずだ。そこで申し上げたい。天下りを認める条件として、下記を提言する。

①天下りは1回に限る(俗に言われる「渡り」は徹底的に禁止し、罰則を規定する)
②どの省庁であれ、民間や法人への天下りに対し、法律で年収の上限を決める(例えば、トップクラスでも300万円で十分)

唐突だが、第二次世界大戦後の識者が、将来の国の形やあり方について、語ったという話はあまり聞かない。つまり、米国に次ぐ経済大国を作ることが、日本のあり方であるという発想を、識者も国民も持っていなかったのである。日本は、爆撃で破壊された国を復興するという使命に対して、各自が持つ役割を、忠実に懸命になって果たした結果、経済大国になり得たのである。

そこで、先ごろ就任した菅総理に今後、「やめてもらいたいこと」を言いたい。それは、「美しい国日本」的な“国のあり方”を語ることである。理由は、この20年、学者や識者が、よって、たかって議論しても、「美しい国日本」程度の発想しか、出てこなかったからだ。

それよりも、我々もこの際原点に戻り、一人ひとりが自分の役割を忠実に果たすことに、全神経を注ぎたい。菅総理には、国民に向けて、そのことを発信してほしいのである。

例えば、学者や教育者は評論家としてテレビに出るのもよいが、一方で、情熱を持って、命を懸けて、一心不乱に生徒の人格を磨くことに専念する。彼らをよき人間として世に送り出すために、どうしたらよいかを、考え実践する。

つまり、世の中に役に立つ人間にするために、己は何をするべきか。生徒をして、物事に挑戦する気構えを持たせるにはどうしたらよいか。これを熟考し実践するのである。もう、「生徒の長所を発見して、伸ばすことが教育である」といった、スローガン(あり方論)からは決別していただきたい。

政治家も原点回帰をしていただきたい。「選挙に勝つことが目的」といった、サラリーマン的・ファミリービジネス的な発想をやめてもらいたい。そんな人が、軽々しく、「国益、国益」といわないでほしい。

政治家の本来の使命とは、国のために自己犠牲を払い、あらゆる困難を克服して、自分が情熱を燃やす「志」を達成することである。我々の先達も、「志あるところ、それを達成するために、自分の命も時間も省みることはしない」といっている。国会の聖なる赤い絨毯を蹂躙してほしくない。

官僚にも一つ言いたい。官僚の原点は「公僕」である。Public Servantである。「公」に奉仕する人々のことを公務員という。国民に、社会に、国に奉仕することが官僚の本分ではなかろうか。この原点回帰の精神がなければ、公務員改革など達成することはできない。この改革を推進するのが政治家であるのなら、政治家も、自分たちの本分は「公僕」であるという意識が必要である。

今回の参議院選挙で立候補者や政党から聞きたいことは、政策論や政治公約もさることながら、政治家は「公僕」であるという意思表示である。政治家はPublic Servantである。この原点をすべての候補者が持ってほしい。また、この自覚なくして、参議院候補としての資格はないのである。そう、「公僕」である。社会と国民に奉仕する国民の代表を選びたいものである。

政治家になりたいという想いは「志」ではない。Public Servantとなる「志」があってはじめて、「公」に奉仕できる政治家としての資格が生まれるのである。くどいが、Public Serviceが目的であって、その手段として政治に関るのである。政治家の「公」に対するサービスが極端に悪いこの国を革新できるのは、我々国民がどのように政治家の職務分掌を定義するかである。

先達が自分の使命を認識して、それに命を懸けたように、そろそろ我々も、自らができることから、全力投球したいものである。傍観から行動へ。もう、国のあり方を語るような、「評論家気分」は、やめにしよう。

また、メディアもこの国を再建するためのPublic Serviceを論じて欲しい。Public Entertainment「娯楽」だけでは国は成り立たない。

Public Serviceは崇高な事である。誰でもできることではない。自覚とCommitment(信念と自己犠牲)が必要である。

最後に宮沢賢治の詩で原点を考えたい。

雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫なからだをもち 慾はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ あらゆることを 自分を勘定に入れずに よく見聞きし分かり そして忘れず

野原の松の林の陰の 小さな萱ぶきの小屋にいて 東に病気の子供あれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き みんなにでくのぼーと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず そういうものに わたしは なりたい

私たちはこのような原点を持つ人物を政治家として選び、国の経営を任せたいのである。この宮沢賢治の詩は、国際的に通用する日本人の本質を表わしているといっても過言ではない。

最近気になる現象の1つが、社会を活性化するためにむやみに起業家の出現を奨励する機運があることだ。もちろん起業自体は否定されるものではない。しかし、問題は起業することが目的になっていることだ。本来なら、起業は目的を達成するための手段でしかないのではないか。

渋沢栄一や岩崎弥太郎という明治の大先輩は、会社を興すことが目的ではなかったはずである。目的は、日本の近代化を促し、産業を興すことであったと思う。その結果、多くの企業が誕生した。

また、シリコンバレーの起業家たちはわが国の起業家に比べてスケールが違う。例えば、2月24日に新製品発表したブルームエナジーという会社は、電力を生み出す「ブルームボックス」という画期的な電池を開発。米国ならばこの電池2個で1世帯分の電力をまかなえると報道されている。

GEやシーメンス、フィリップスなどの大企業の研究所から生まれたものではなく、ベンチャー企業が世の中に出したものである。インド生まれのCEOは、一攫千金という発想があったにしろ、企業を興すことが目的ではなかっただろう。化石燃料が枯渇する状況下で、どのようにして家庭に対して効率よく電力を供給するかという目的を追求する結果、この会社が起業されたのではないかと思う。

わが国においても起業を志す人々は、社会のニーズに対して新しい創造や価値観を統合するといった視点から起業を考えたらよいと思う。

私は、論理思考に関する仕事に34年にわたって携わってきた。当初はビジネス人個人に対し、コンセプチュアルスキル、つまり中国でいう智力(十分な知識がなくても問題解決ができる能力)、欧米でいうインテリジェンス(新しい状況に対してスピーディーに間違いなく対応できる能力)を展開してきた。

今までの実績を振り返ると、論理的な思考の究極の目的は、個人の能力アップや企業の生産性向上ではなく、わが国の経済全体に関わる問題ではないかと思うようになった。

リーマンショック以降の各国の回復状況を見ても、日本は大幅に遅れをとっている。さまざまな背景や原因があるにしろ、根本的な問題の1つが、政府や企業が行なう意思決定のスピードと精度にあるといえる。

また、最近の国際交渉を見ても、日本だけが交渉の土俵に乗り切れていないような気がする。このフラストレーションが何かを考えてみると、どうしても日本人の問題解決のアプローチが独特であり、世界的なメンタリティに合わないといわざるをえない。

よく言われる、韓国のサムソンがこれだけ企業としての実績を上げている背景は、国策企業ではあるというものの、重要案件に対する意思決定が速いということが既に指摘されている。

この意思決定のスピードは、中国やインドをはじめアジア諸国に共通であり、日本だけが蚊帳の外にある。この状況を放置すると、企業や国全体の競争力低下につながり、日本の国そのものの衰退につながるといったら言い過ぎだろうか。

この日本の現状を裏付けるデータがある。スイスの拠点を置くIMDが毎年発表している世界競争力年鑑を見れば明らかである。日本は2009年発表の総合で順位が上がったとはいえ、17位となっている。ちなみに2007年は24位まで落ち込んだ。IMDの順位を分析すると、順位が低下している背景が2つある。それは政府の効率性(Government Efficiency)とビジネスの効率性(Business Efficiency)が極端に低いということである。

今もって不思議なのだが、この現実について、政府も企業も学者も、ほとんど触れていない。極論をすれば、この領域の改善がなされない限り、日本の競争力が向上することは考えられないのではないか。

このEfficiencyの本質は言うまでもなく、意思決定の精度とスピードである。また、社会全体が躍動していない背景の1つに、リスクテイキングをしないことが挙げられる。

意思決定の精度とスピードについていえば、やはり問題から解決に至るまでの考え方の段取りが論理的であり、プロセスとして確立されてなければならない。ちなみに、政府の高官や企業のトップに「あなたはどのような考える手順で意思決定をされているか」ときいた場合、説得性のある回答が出てくるだろうか。日本以外の国では、責任ある意思決定者はこのプロセスを明確に意識している場合が多い。

また、なぜ日本ではリスクテイキングをしないか。それには2つの理由が考えられる。第1は過去に痛い目にあったことがあり、大きな責任問題に発展した事例があることにこだわることだ。このことが意思決定者の意識の萎縮につながる。

第2の理由はリスクそのものの実態を把握していないことである。実態の把握とは、潜在的に発生する数十、数百という現象を想定し、それらに対して対応策があるかどうかを見極めることである。現象とは、計画からのズレであり、起こりうる不利な状況であり、起こりうるダメージである。

よくいわれる「想定外」という表現が、わが国では安易に使われすぎている。むやみやたらに「想定外」という表現を使うということは、自身の将来に対する読みが浅かったことを開示しているようなものである。本来、「想定外」は、決定を実施する際に、数十、数百という将来起こりうる現象を想定して初めていえることである。

これらのことは、一企業や組織の問題にとどまらず、日本の社会全体の克服すべき課題として取り組む必要がある。それによって停滞している日本社会の現状を打破し、企業においては競争力強化を促進するための不可欠な要素となる。