飯久保廣嗣 Blog

役員クラス、さらにはトップになれば、問題解決や意思決定の精度と迅速性がさらに要求される。

各部門から上がってくる諸重要案件の決裁をし、組織にとって望ましい部分を伸ばし、一方でマイナスを除去する判断の連続である。このことは、グローバル化の中で存続するために、組織をどうするかという基本的な課題に、答えを出していくことに他ならない。

三菱商事の社長・会長を務められた三村康平氏は、トップの役割についてこう述べた。

「世の中がどのように変わっても、きちっとした意思決定ができる組織を確立し、それを維持することである」

この三村氏の考え方をどのように自分の組織で確立するかが、ラショナル思考を展開するCEO・役員の最も重要な命題であると思う。

これを、別の表現で言えば、「組織の“意思決定のコスト”をどのように削減したらよいか」ということになる。

製造コストの削減を達成した日本の産業界が、目に見えない思考業務の効率をいかに向上させるかが、CEO・役員の大きな責務といっても過言ではない。

また、CEO・役員にとっての重要な発想の転換は、「部下に対してどのような質問をして意思決定をするか」ということである。

特に重視すべきポイントは、CEOや役員が決裁において、タブーとされる質問をしないことである。

それは、

「この計画は問題ないね」
「これは本当に大丈夫だね」
「この決定に対して責任を持ってくれるね」

という質問である。こういった質問をされると部下は、「実は問題があります」とは答えにくい。このようにして、起こりうるリスクを隠蔽する状況に陥ることを避けなければならない。

国外では、想定外の大きな問題が起きた場合は、経営者は謝罪をしたり、責任を取って辞任するということはまず起きない。

日本との違いはいったい何か。それは、「問題や事故は起こりうる」ことを前提に諸対策を講じているかいないかである。したがって、上記のような質問は欧米ではしないのである。

組織のCEOが責任を取るのは、起こりうる問題や事故に対し、それらの発生を防止するための予防対策にヌケ・モレがあった場合である。また、問題が発生した際の影響を最小化するための対策に同じようにヌケ・モレがあった場合である。この場合は、単なる謝罪や辞任では済まされず、刑事問題となる。

これは、CEOや役員が将来の起こりうる問題に対し、徹底的かつ具体的に発生しうる現象を想定し、それらに対する対策を立てる必要性を示している。日本の企業風土はリスクに対して考え方が甘く、謝罪をすれば問題が解決すると思っている節がある。このことが、将来問題への対応の甘さにつながっていることを十分に認識したい。

仕事とは問題解決、意思決定、リスク対応の連続である。特にマネジャーにもなれば、そうした「思考業務」の割合が飛躍的に多くなる。

しかしマネジャーの中には、自分が「問題解決者」であるという自覚が足りない人が多い。そのため思考の修練を怠って、「思いつき」によって組織を動かし、部下を困惑させると同時に、失敗を繰り返していることが少なくない。

問題解決には「知識」「智力」が必要である。智力は問題解決の基本的な思考様式と考え方である。そして、理想的な問題解決者となるには、「問題」とは何かについて正しい理解が欠かせない。

例えば、原因究明に関する問題を分類すると、「発生問題」、「発掘問題」、「創出問題」の3つになる。「発生問題」は突発的に発生する現象であり、製品の不具合、市場からの商品クレームなど、問題のほうから飛び込んでくるものである。

「発掘問題」は問題として存在はしているものの顕在化していない。事業部の売上の減少が継続している(氷山の一角)、なんとなく部門内の士気が上がらないなどである。発掘問題については、鋭い質問による対応が考えられる。「どのような現象がどこで起きているのか」、「誰が何を言っているのか」で、対応できる。

「創出問題」は、一見、「あるべき姿」と「現実」に差異がない状態における問題である。一般的に「当部門ではすべて順調で問題はありません」という考えこそが、実は問題だ。

そうした際にはチャレンジングな課題をつくり出す姿勢が必要なのである。たとえば「売上目標が達成されている」、「工場の生産性が計画通りである」という状況に対して、より高い目標を設定し、それを達成するための課題を明確にすることが必要となる。

ラショナル思考的に考えれば、「あるべき姿」を現実的に上位展開することによって、そこに人為的な差異を生じさせ、その差異を克服する手段を課題として設定することになる。

この創出問題へのもう一つの考え方は「リスク対応」の応用である。発想としては「○○工程の時間を20%削減することに対するリスク対応」あるいは「△△地区の販売目標を10%増加することに対するリスク対応」という発想で、それを達成するための阻害要因をどのように克服するかがポイントとなる。

太平洋戦争終結の目的で、米国は8月6日に広島の原子爆弾を投下した。このことの日米における歴史認識は、米国側は戦争の早期終結により多くの人命を救う方法としてやむをえないものとしている。一方、日本側の結論は、未だに出ていない。

筆者は、2004年ごろ米国の原子爆弾に関する実施記録を見たことがある。それによると、第1回の実験は、1945年5月にネバダで実施された。第2の実験は、8月6日の広島であり、その備考欄には、「コンバット(実戦)」となっていた。

8月9日に第3の実験がなされた。これは長崎である。やはり備考には「コンバット(実戦)」と記録されていた。

戦争における異常な状況での原爆投下ではあるが、人類に対する非情な犯罪行為として、問題を解決しなければならない。また広島の3日後の長崎は「戦争終結」という理由では、説明できないだろう。これは、広島がウラン型の原子爆弾であり、長崎がプルトニウム型であったことが、その投下理由を如実に表わしているといえる。これは米国の識者も認めているところである。

もう1つ記憶するべきことは、8月8日である。それは、ソ連(現ロシア)が日ソ中立条約を破棄した日であり、翌日参戦してきた。条約がなぜ破棄されたのかの理由は別にして、我々はこの日を歴史的な日として記憶しておく必要はないのだろうか。なぜなら、この参戦により、北方領土問題など未解決な問題が発生しているからである。また、筆者の記憶が正しければ、ソ連はサンフランシスコ平和条約への署名はしてなく、つまりは対等な国家間のつき合いがなされていないともいえる。

サンフランシスコ平和条約には49カ国の署名があるが、その中にソ連の署名はない。これは、条約締結時に、ソ連の代表であるグロムイコ氏が日本に対する対処が寛容すぎるという理由から、退席したという事実がある。

そして、8月15日だ。現在、昭和天皇に関する書籍が多数出版され、関心を呼んでいるが、天皇は敗戦後の9月27日、マッカーサーを面会し、次のようなにいわれたと記録されている。

「戦争責任は自分が負う。どのような処分も受ける。その代わり、国民に食料を提供してほしい」――。

これは、天皇自身のお考えであり、周囲から進言されたものではない。なぜなら、周囲が天皇にこのようなことを言えるはずがないからだ。

日本人にとっての8月をどのように捉えるかは、個人によってさまざまだろう。筆者は、原爆に関してはいたずらに被害者意識を持たず、この事実からどのような建設的な発信が世界に対してできるかを、それぞれが考えてみてはどうか、と思っている。

また総選挙がやってきた。しかし、重要案件にも関わらず、意外に国民の関心はそれほど高くないのではないか。理由はいくつもあろうが、筆者なりに大きく2つに分けて述べることにする。

1つは、政治家や政党がこの国難のときに、どのような国にするのか、国際社会でどのような位置付けの国にするのか、といった国家の根幹に関わる論議をしていないことである。マニュフェストなどといってカタカナ日本語で誤魔化しているが、そのカタカナ日本語の中身からは、その本質がスッポリと抜け落ちている。それは、元総理がいった「美しい国」といった表現では話にならない。日本の国のあり方を問われ、「美しい国を目指します」といって、国際社会がまともの付き合ってくれるだろうか。今の民主党の党首の「友愛社会」もあまりに現実離れしている。国際社会では「?」となり、バカにされるだけだ。

そして、「公約」といえばいいのに、なぜ「マニフェスト」というわけの分らない言葉を使うのか知らないが、各党が出しているマニフェストのほとんどが「手段」であり、その結果何を目指すのか、「目的」がおざなりになっていることも問題である。例えば、民主党の「子ども手当・出産支援(年額31.2万円)」、「高速道路の無料化」、「暫定税率の廃止」もすべて手段である。自民党の「国会議員数の削減」、「3~5歳児の教育費用の無償化」も同じだ。つまり、聞こえばかりよくて、何のための政策かの「何のため」が不明確なのだ。

またこれらの「公約」は選挙のための「たわごと」であることを国民はよく知っている。その証拠に、選挙を控えて公約を慌ててまとめている。そんな公約を信じろというのは無理な話だ。本来、公約とは、時間をかけて形成し、それを勉強し熟知した候補者が国民に掲げるものではないのか。国民は、当選すること・させることを「目的」と考える候補者や政党に落胆している。

政治家のメルマガやブログも、まるで理念や自分の考えがないものがほとんど。内容は外国で誰と会談したとか、国会のどの委員会の理事に就任したとか、おおよそ、国民にとってどうでもいいことばかりだ。そこに国のビジョンや己のミッションに関する気概のある議論や言葉は見当たらない。

さて、2つ目は、候補者の素性が不明確であることだ。選挙とは、当たり前のことだが、複数の候補者の中から国政を任せるのにふさわしい人物を選ぶ行為である。ところが、選ぶために必要な候補者の素性を知るための情報がない。

我々は就職の面談に行くときに必ず履歴書を持参する。それは採用する側に、自分の素性を知らせ、会社の一員としてふさわしいかどうかを判断する基準にしてもらうためだ。採用する側(国民)に求職者(候補者)がきちっとした履歴書も開示せずに選べとは、いったいどういう神経をしているのか、疑ってしまう。

就職の面接では、経歴に空白があったりすると、その理由を問われる。空白が長いとその人の信用に関わる。国民はそこも1つの物差しとして、判断したいと思っている。このような当たり前のことが無視されているのだから、国民が政治に関心を持たなくなるのも当然といえよう。

もし、このような状態で投票率が高くなったら、それは選挙そのもののクオリティに問題があるといわざるを得ない。選挙で投票することは「義務」ではあるが、同時に、我々の代表を選出するという「権利」でもあるのだ。素性がよくわからない人たちを選び、国会で国の経営をさせることへの負のインパクトを考えたい。

なお、筆者は今度の選挙は投票には行くが、「候補者に関する情報が少ないので選べません」と書くことにする。無論、無効票になる。だが、国政によく知らない人を選ぶことほど、国民として無責任なことはない。政治家の方々にお願いしたい。選挙制度を何とかしてください。

日本中を覆っている閉塞感や自信喪失を心配する人は多いだろう。何となく生活が保たれているが、皆、それこそ、何となく危機感を持っている。この状況が長期化すると社会の活力は萎えていく一方である。

組織や個人の活力を取り戻す方法はさまざまだと思うが、筆者はそのアプローチの1つとして、日常生活に使われている平均的な言葉(ボキャブラリー)をしっかり定義することに活路を見出したいと考えている。

筆者は1980年代に米国の各都市を講演のために周ったことがある。その1つの都市であるミシガン州のデトロイトを訪問したとき、「権利」、「責任」などについて解説した初等教育用のテキスト(Wayne State University版)を入手した。

その中には子供として理解しておくべきいくつかのキーワードが記されていた。そして、驚くことに、そこには大人でも納得するような、実に明快な定義が記述されていたのである。

例えば、フェア(Fair)の定義である。日本語訳では、「正しい、公明正大な、規則にかなった」といった定義となっている。ところが上記の小冊子にはより具体的かつ本質的なことが書かれていた。「すべての人に同一条件を与えること」となっていたのだ。

つまり、それを実践的な形で言い換えれば、「条件を同じにして競争する」ということだ。スポーツに当てはめれば、技術が劣る参加者にはハンディキャップをつける、ボクシングやレスリングなどでは体重によって階級を設けて競わせる、などとなる。

ここで注目したいことは、日本的なフェアの定義、つまり「公明正大であればそれでよい」という考え方は国際社会では通じないということだ。好例が、日米の自動車摩擦である。当時、米国側が「日本はフェアでない」と非難した意味が我々にはわからなかった。日本は公明正大に企業競争をしているつもりだった。それを「なぜ非難されなければならないのか」。そんなスタンスが大勢を占めていた。

これに対し米国側は「競争条件を同じにして競うこと」を要求していたのだ。それを具体的な形でいえば、「日本企業が米国に工場を開設し同じ生産環境で競争しろ」ということになる。日本の自動車業界はその後米国のいう「フェア」な条件で戦い、勝利を得ることができた。

筆者が言いたいことは、日常的に用いる言葉や概念を国際的に通用する形で定義していくことにより、我々日本人は、世界を相手に競争する方法を見出すことができ、それを活力とすることができるのではないか、ということである。

例えば経営用語のおける「問題」と「課題」はどう違うのか。「目的」、「目標」、「狙い」、「ゴール」はどう違うのか。「選択肢」、「対案」、「代替案」はどう違うのか。そういったことについてあらためて国際的に通用するかどうかを意識しながら定義することで、その後に本質的で建設的な議論の展開が可能になる。「どうしたらいいかわからない」といった人が多い今、言葉の定義を見直すという根本的な作業は、実は有効なのである。

参考までに、デトロイトのテキストに記述されていた他の言葉の定義も以下に記す。

①政府(government)
日本語の定義は、「国家をおさめる機関。内閣と中央官庁」。一方、デトロイトの定義は「都市や州や国家の運営に関する諸事項をマネージする集団」となる。マネージとは単なる「管理」だけではなく、「物事を処理する、方向付けをする、規制する」など問題解決という概念が含まれていると筆者は認識している。

②権利(Right)
日本語の定義は「一定の利益を主張し、またそれを受けることのできる法律上の能力。ある物ごとを自由になしうる資格」。一方、デトロイトの定義は「個人に当然与えられるべきもの」となっている。

私の知人に中国語のエキスパートがいる。彼女は早稲田の大学院で博士課程に在籍しながら、若くして北京大学から「環境マネジメント」について中国語で教える常勤講師として招聘された。おそらく北京大学の日本人の常勤講師は前例がないのではないだろうか。

その彼女との雑談の中で、中国語は単数形と複数形を明確に区別しているということを知り、これは私の中では一大発見となった。今までは先入観で中国語は日本語と同じように単数形、複数形を区別しない言語だと思っていた。しかし、実態は違っていた。これが意味するところは、中国語が、国際語である英語との共通性があり、日本の伝統的思考様式とは一線を画するということである。

もう少し詳しく説明すると、中国語の文法は、日本語のように「主語が不明確」、「動詞が最後につく」という形式とは違い、英語と同じ形式(主語+動詞+目的語)である。その上に、さらに、単数形と複数形を区別するという共通項も持っているのである。

このことは、日本人の国際コミュニケーションにどのようなインパクトを与えるのだろうか。

我々日本人は複数形の概念を意識することが希薄である。そのため、「優先順位の概念を使いこなせていない」、「意思決定という概念において、複数選択肢から最適案を選ぶという明確な解釈がない」、「物事の目的を考える場合、どうしても単数形になり、副次的な目的を考えない」など、国際的な問題解決の場面に参画できない思考様式を持ち合わせてしまっている。

一方、中国語は、国際語である英語や西洋の思考様式と類似している。つまり、日本人はこのままでは、日米中の経済大国の中で、基本的なものの考え方で孤立する危険があるということだ。このことは私にとって大きなショックだった。それと同時に、日本人の思考様式をより合理的なものにするための活動に、ますますまい進しなければと思った。

それでなくても、中国の人たちは、アグレッシブであり、自己主張力があり、議論が大好きで、しかも考え方が合理的である。このことは、米国の特徴と一致する。ことの良し悪しは別にして、これは日本社会全体の問題として捉える必要があるのではないか。