飯久保廣嗣 Blog

2010年03月11日

外国で日本が馬鹿にされるわけ

昨年民主党幹事長が大議員団を引き連れて中国詣でをした。その目的は何だったのだろうか。当時の報道で、胡錦濤国家主席が各議員と入れ替わり立ち代わり2ショットを撮る際の作り笑いの表情を思い出してしまう。

世界の主要国で、その国の与党のリーダーが自国の国会議員を引き連れて、米国といった大国や、経済成長が目覚ましい中国に大挙して押しかけることは日本以外には考えられない。国辱的といっても過言ではない。恥ずかしい事である。

このような政治家の前代未聞の国際的に破廉恥な行動はさておこう。ここで問題にしたいことは、普天間基地移設問題に対する日本人の思考方法である。

せっかく営々と築いてきた日米同盟関係、日米信頼関係は、この問題が一つのきっかけとなって破壊されようとしている。そもそもこの問題は1999年には辺野古崎沿岸が地元の受け入れ合意後に閣議決定され、移設が日米合意のもとに決まっていたことではないか。

それを政権交代を主な理由として、ひっくり返してしまった。決めたことを守らないことに当然米国は不信感を持つことになる。この国は果たしてアジアの安全を守るパートナーとして今後信頼してよいものなのかとなる。この際、日本の信義と国益を考えたら、政治において超党派的な発想が必要なのではないだろうか。日本の安全は自国だけで守れないことは明白であり、多くの国民もこの事実認識している。

そこで、今回の日本政府の行動をプロセスとして分析してみる。まずは民主党内閣が日米が合意している移設案が実現できないと米国側に示し、相手の出方、様子を見る。今回の問題に対して相手側のルース駐日米国大使は、断固として前政権との間に交わした合意を遵守せよと譲らない。考えてみれば、当たり前のことである。14年前から話し合って、あらゆる議論をし尽くして決めたはずの合意である。

では、こうした米国の断固たる姿勢に対し日本政府は次にどの様な行動をするのか。民主党のおかれている状況、7月の選挙など、とにかく現状を懇切丁寧に説明する。岡田外務相が説明し、鳩山首相が県民の気持ちを尊重する方針を説明する、といったことである。

それでも、ルース大使は立場を変えない。そこで、次ぎの行動として、「何とか我々の立場を理解していただきたい」と、繰り返しお願いをするのである。そうです。お願いをするのであります。対等な立場の国が、交渉の相手国に対して理解を求めるという発想が、そもそも対等ではないことを証明しているのである。実に困った発想である。

日本の社会ではこの繰り返しの説明と理解を求める行為は通用する。相手をして、「そこまで頭を下げるなら手ぶらでは返せない」という発想が働くのだ。だが、国際社会では日本式の思考様式は全く通用しない。

それでは、結果的にどうするのか。結局は相手の言いなりになるか、妥協をすることになる。この妥協をしようということにたどり着くまでに、行きつ戻りつ数ヶ月を費やし、お互いの不信感がつのる。

日本側は仕方なく妥協する。これで話が何とかまとまった場合、わが国の米国に対する態度は、「これだけ妥協したから満足だろう」ということになる。しかし、米国側は不満を持つ。つまり、妥協するのなら何故はじめからそうしないのだと言う。

この問題解決への発想のプロセスが、わが国の思考様式の限界を示している。つまり、国際問題が起きるとまず、「①様子を見る」。そして「②要望に応えられない理由を考えて説明しよう」となり、膨大な資料を作る。しかし、相手は説明に納得を示さない。ここで、「③何とかこれで勘弁していただきたい」と再三にわたり理解を求める。それでもダメなら「④しょうがない、この妥協案でどうか」となる。この一連の流れを見た限りでは、どこから見ても「相手のいいなりになった」という印象を拭えない。

では、どの様に考えたらよいか。問題が起きたときに、複数の対応策を考え、さらに対応策を実施した場合のリスクも想定し、それらにも対策を考える。その上で、複数の対応策の中から最良の移設案を検討する事になる。この際重要な事は、問題から結論に至る考え方の筋道、プロセスを両者が合意してから討議や交渉に入るということである。

日本的な論議の展開では、多くの場合、相手側は不満を持つ。米国は間違いなく、こう思っている。“Why did it take so long?”もしくは“Why it took so long?”と。一方で日本側は“Why don't you thank us?”と考える。これは致命的なすれ違いである。この発想法を変えないと、日本はいつまで経っても圧力をかければ、妥協する国だと見られてしまうのではないだろうか。

一方で、例の天安門事件の中国の対応は実にスピーディであった。世界社会からの非難に対応する選択肢としてあったのは、「①何を言われても無視する」、「②状況説明をして、政府の正当性を主張する」、「③政府の行き過ぎを認め遺憾の意を表明する」。大体このようなことであったと思われる。

そして、時の中国政府の決定は、上記の「①何を言われても無視する」を選び、以降、世界社会が何を言おうと無視を決め込み、そのうち人権問題に言及し始めると、真っ向から内戦干渉であると異議を唱えたのである。言いたいことは、この結論が適切であるかではなく、この発想こそが外国から馬鹿にされないということである。政権が変わったから、反省して謝罪する等の行動は間違っても起こさない。中国を擁護するつもりはないが、この考え方は参考になる。このことは以前にも書いたことである。