飯久保廣嗣 Blog

我々が、目指す論理思考の強化は、言い換えれば、グローバル・スタンダードである標準的な思考様式を理解し、それらの“Why”を明確にして、実践に活用できるツールとして身に付けることにほかならない。

そして、日本的な思考様式にある、さまざまな知恵や考え方を、再編成すると、自ずから論理的な思考様式が確立できることを認識したい。論理的な思考様式は、西洋からの輸入品ではなく、我々の経験がそのベースとなるのである。この領域における日本の弱みは、判断業務におけるさまざまな知恵が、体系的に整理されていないことである。

では、今回は優先順位の“Why”について考えてみる。なぜ我々は優先順位をつける必要があるのか。それは当たり前のことであるが、限られた経営資源(人、モノ、カネ、時間、技術、情報、場所など)を有効活用するためである。例えば、重要度や緊急度がともに低い案件を分析し、対応策を立案することは、必ずしも合理的とはいえない。

ここで、注意すべきことは、優先順位と意思決定とは区別して考える必要があることである。優先順位とは、直面する状況の中で複数の問題や課題があった場合、どれから手を付けるかの判断をするに過ぎない。これに対し、意思決定は、決定事項に対して、複数の選択肢を立案し、最適なものを選ぶという分析行為なのである。必要であれば、このようなことも充分に意識したい。

日本人や日本の組織が、論理思考をますます必要とする時代が、今後も続くことになる。なぜならば、日本の競争力は、意思決定の精度とスピードにリンクするからである。別の表現をするならば、日本の組織には「意思決定のコスト」をどのように削減すればよいかという、避けては通れない課題がある。

そこで、前回に言及した論理思考の“Why”について、さらに解説を進めたい。

ここでは、発生した問題現象の原因を究明する場合の論理的な思考手順を考えてみる。まず、いわれることは、「原因究明をする課題を明確にしろ」ということである。では、なぜこのことが論理思考で必要なのか。それは2つ考えられる。

1つは、発生している現象に対して収集する情報の範囲を限定することができるからである。問題分析において、情報が多いほどよいということは、実は正しくない。論理的に整理された次元で体系的に情報を収集するためには、分析課題が明確になっていなければならない。

2つ目は、個人やグループで分析業務をする場合に、当該課題に対して集中させることができるからである。また、分析や討議が脱線した場合、本論に立ち返らせるための、ガイドとしての役割も果たす。

ここで、分析課題が明確になり、次のステップとして、「情報を収集しろ」ということになる。情報収集の合理的な枠組みに関しては、別の機会に述べるとするが、なぜ情報を収集するのかという“Why”について、ここでは考えたい。それは、発生している現象について、抜けなく漏れなく説明するためである。

例えば、「A製品は半年前より首都圏の○○顧客から大量にクレームが出ている」では、現象を十分説明していることにはならない。首都圏のどの地域であるか、クレームの具体的な内容は何か、どのような状況で発生しているのか、このクレームの傾向はどうか、などの情報がなければ、現象の全体を説明しえない。

さらに、情報収集には重要なポイントがある。それは、B・C製品についてはどうか、首都圏で問題が起きてない地域はあるのか、発生していない状況はあるのか、他の顧客では問題はないのか、などの情報も収集しなければ、この“Why”に対しての解にはならないのである。

最近、新聞や雑誌、書籍などで、「論理思考」に関する記述やタイトルがほとんど見られなくなった。このことは、日本の組織・社会で物事を筋道を立てて考えることに、人々が関心を持たなくなったことの証左ではないか。

なぜこのような状況になったのか。個人も組織も自己武装のために、研修や書籍によって、学習をした時代が続いたが、現実的にはあまり実践に役に立たなかった。その背景には、いくつかのことが考えられるが、その1つは、論理思考を短時間で身に付けることができるという、安易な期待感が個人や組織にあったことではないか。一方で、学習した教材や研修の内容に、問題があったことも挙げられるだろう。さらには、論理的思考プロセスのステップを単に知識として理解すれば実践できるという錯覚があったことである。

言い換えれば、論理的な思考についての知識をいくら学んでも、関連する各々の考え方の“Why”(根拠)を理解しなければ、あらゆる実践的な場面で柔軟に使うことはできない。例えば、意思決定においては、「目的や目標を明確にすること」が必要であるといわれる。では、「なぜ、目的や目標を明確にしなければならないのか」を、考えたことがあるだろうか。

日本の知識偏重教育においては、物事の「なぜ」を考えさせる機会は皆無に等しい。その結果、いきなりこのような設問をされると、皆さんは戸惑うことになる。前述に戻り、「目的や目標」の「なぜ」を考えてみると、その1つは、意思決定において、ある案を選定し実施した場合のアウトプットを事前に設定することが重要だからである。また、その決定に対する制約条件(人・モノ・カネ・技術・時間・場所など)を明確にする必要があるからである。これらの項目は、結果的に複数選択肢を選定する場合の判断基準となる。

これ1つをとっても、論理思考における思考の手順には深い意味があり、これを理解することが、本来の論理武装の本質なのである。ますますグローバル化する時代において、我々ビジネス人が個々の能力を強化する上で、こうした“Why”を理解し、論理的な考え方を見直すことが重要なのではないだろうか。

例外的な政治家を除いて、よく批判されるのが、政策策定や立法において、官僚主導型であるということである。これは現在の状況では致し方ないことかもしれない。なぜなら、制度上、内閣府に政策や立法を考える機関と能力がないためと思われる。

米国には独立した共和党系のハドソン研究所、民主党系のブルッキングス研究所があり、国の政策や法律について、戦略的な研究を進めている。わが国に、このような機関を早急に作り出すことは、困難である。そこで、現状を踏まえて諸議員が官僚と対峙し、政策論争を展開するときに、1つの有効な武器として挙げられるものが「質問力」ではなかろうか。

では、どのような質問形が考えられるか。下記に列挙する。これは、官僚が俎上にのせてくる政策や法律などの諸案件などの説明を受けた後で、それらを精査するために使える1つのツールとなり得るのではないだろうか。

1.実施した場合の工程表で、成功させるために、どの工程(諸重大領域)を注意する必要があるか。またどの工程に支障や問題が発生するのか。
2.それらの工程で具体的に起こるかもしれない計画からのズレや将来問題を想定すると、どうなるか。考えられる諸問題をすべて明確にせよ。
3.それらの将来問題(起こり得るリスク)を「発生する確率」と「起きた場合の重大性」で絞り込むとどうなるか。
4.それらの将来問題を引き起こす原因となるものはなにか(想定原因)。
5.この想定原因を取り除く対策(予防対策)にはどのくらいの予算が必要か。
6.将来問題発生時の事前の対策(コンティンジェンシー)にどのくらいの予算が必要か。

上記の質問形は、昔からの日本人の知恵にあるもので、西洋から学んだものではない。本質は、計画には2つの対策を織り込むことが重要であるということを示唆している。1つは予防対策であり、「発生するかもしれない問題の原因を除去する対策」のことである。そして、もう1つは、コンティンジェンシーであり、「発生したときの影響を最小化するために考えておく対策」のことである。

この2つの対策を予め策定することの重要性を、「備えあれば憂いなし」ということわざによって先達は教えているのである。重要なポイントは、いかに政策や法律が完璧に策定されていても、それを実施する際の問題点と対策を想定し、計画そのものに盛り込むことである。


政治家主導の政策立案を推進する場合、官僚に対し鋭い質問で対応するということが重要である。そのことが、より国益にかなった政策論争につながるのではないだろうか。

税金の無駄遣いに対して、国民は大きな関心を持ち、それに対する対応の議論がなされている。しかし、この中で、欠けている視点が2つあり、それについて述べてみたい。

1つは戦略である。多くの学者や有識者は、日本には戦略がないので、国のあり方について議論をしなければならないという、評論家的なことは口にするが、具体的にそれを構築するために、どうしたらいいかという議論にはなかなか至らない。

近代日本史には明治維新、太平洋戦争敗戦、平成不況という3つの大きな節目があった。明治維新、太平洋戦争敗戦という混乱時には、日本人は国家として大きな戦略を形成し、それを具現化した。

この2つの歴史的な事柄に対しては、ごく自然に国家戦略を形成することができた。それは、「産業国日本の建設」と「経済復興」であり、これらは高度な分析など必要なく、結論を得ることができた。その背景には、外国の影響により自然とその方向性が決まり、国も国民も一丸となった対応があったのである。

しかし、今回の平成不況は、その原因が外国との関連ではなく、日本人が自ら引き起こした現象であり、それは複雑な要素が入り組んでいる。したがって、原因を明確にして対応することが非常に困難であり、失われた10年が、20年になろうとしている。このような背景から、日本としての戦略の形成がいまだに進まないのである。

そこで、スタート台に立つために、戦略の概念とは何かについて明確にする必要がある。私は、高度な戦略論を展開する資格はないが、自分なりの考えを提示したい。2000年余りの歴史を持つ日本という国があるのは、先人が何らかの戦略的な思考を持っていたからではなかろうか。

この戦略的な思考を先達が持っていたことの証拠は、広辞苑(昭和41年第1版25刷)の「経営」という言葉の定義にみることができる。そこには、「縄張をして営み造ること」、また、「規模を定め基礎を立てて物事を営むこと」とある。この発想がまさに戦略の原点といえる。

すなわち、「重点投資をする範囲や対象を明確にし、それに基づいて諸計画を策定すること」をいっているのではなかろうか。今日使われる戦略の概念に欠けている点は、まさにこの「重点投資をどうするか」という議論なのである。このことから、国の財政が破綻寸前にもかかわらず、バラマキの予算がまかり通ってしまう。技術立国を目指す発想も、どの領域に絞って重点投資をするかという基本的な視点がなければ、成果はおぼつかないだろう。

戦略とは、組織の将来の方向(Direction)や性質(Nature)を形成するための概念である。これを具現化した企業が、有名なフィンランドの携帯電話メーカーのノキアである。従来林業を主としていたが、重点投資領域と組織の性質転換のための戦略を形成し、それを見事に実現した例である。また、米国のGEは、総合電機メーカーだったが、重点投資領域の1つとして金融を設定し、事業展開した。これも戦略的発想の成功例である。

戦略形成を考えるときに重要なのは、組織を動かしている主な駆動力(ドライビングフォース)が何であるかを、見極めることである。その駆動力自体を変えることから、すべては始まる。例えば、個人レベルで言えば、若いときは収入だったのが、その後は生きがいになったり、社会に対する貢献になったりする。この駆動力が変わることによって、将来の方向や性質が転換することになる。

日本の戦略を考える場合に、従来の駆動力であった製造中心、外需依存社会をどのように変えるかについては、なされている。だが、何を駆動力にするかについての具体的な議論が収斂されていない。この駆動力は組織の規模によって必ずしも単一ではなく、複数あってよいと思う。また、戦略=長期計画という発想もこの際見直す必要もある。経営環境が激変すれば、柔軟に駆動力を変更することになるからである。

こういった戦略欠如の状態で法律を作り、諸施策が施行されてしまう結果、それがうまくいかない。うまくいかないことに対する対応策を国家予算を使ってまた考える。この悪循環が、税金の無駄につながるのである。

2つ目の欠けている視点については次回に譲りたい。

乱世の時代には国語が乱れる現象が歴史的にあったかどうかは別問題として、社会通念やルールにまで影響を与える「不思議な日本語」が横行している。そのなかで2つのことを取り上げてみたい。ひとつは「失脚」であり、もうひとつは「理解を求める」である。

安倍晋三元総理に対し特に恨みはないが、あのような経緯で国の最高責任者としての責務から離れた場合、その報道の表現のひとつとして「安倍晋三総理は失脚した」とあっても良いのではないかと思う。これに異論があるかもしれないが、少なくとも国際社会において最高責任者が納得できるような根拠がなく辞任することは、「失脚」と言われても仕方がない。

同じようなことは中川昭一元財務大臣にも言える。マスメディアはこぞってローマにおいての醜態を批判し報道した。この時点で、中川元大臣には誠にお気の毒ではあるが、政界から「失脚」したと海外の常識や社会通念は判断するのではないか。一方で、日本のマスコミは、性懲りもなくこれらの人物を再三登場させることに全く問題意識を持たない。特にテレビは視聴率を上げるために、時の人として何度も登場させる。このことのマイナスをよく考えたい。自国の恥を世界に積極的に売り込んでいるようなものである。

ところで、「理解を求める」という報道も横行している。例えば、わが国の高官が外交交渉において相手国との会談後、わがマスメディアは次のような表現を用いることが多い。「○○国の担当大臣に面談し、理解を求めた」という表現である。

常識的に考えると、下の者が理解を求めることはあっても、上の者が下の者に理解を求めるという発想はあり得ない。理解を求めるという発想は、対等な立場を放棄したと思われても仕方がないといえる。

欧米諸国に対して日本は理解を求める立場が過去にあったことは事実である。しかし、最近の報道をみると、ODAなどで援助している国に対してもわが政治家や政府高官が「理解を求めた」という表現があり、非常に気になる。

「理解を求めた」ではなく、本来の表現は、相手に対して「代替案を示した」「主張した」「協議をした」「要請をした」「撤回を求めた」などが適当ではなかろうか。

いくら何でも、北朝鮮との交渉で相手に「理解を求める」ということはないだろう。それ以外の国との交渉も同じ姿勢が必要だ。理解を求めるという意識がわが国側に少しでもあれば、相手国につけ入れられることになりはしないかと憂う。また、日本の報道が本国に報告される場合、「日本が理解を求めた」という表現を直訳される可能性が高いことも、非常に問題だ。国やマスメディアのこうした姿勢が、相手国との対等な交渉を困難にすることを、今一度真剣に考えることが必要ではないだろうか。