飯久保廣嗣 Blog

最近気になる出来事

先日の報道によると、一般消費者から1千億円前後を集めた健康関連商品販売会社が、詐欺事件として刑事告発されたとのことです。被害に遭った出資者はどのような発想で出資の判断をしているのでしょうか。多くの場合は、出資者を信用させるための巧妙な仕掛けや仕組みがあります。いわゆる著名人や親しい友人に薦められると、思考停止になり、自己判断を放棄する傾向が一部の日本人にはあります。このような状態に陥った人たちが被害者となっているようです。

では、被害に遭わないための処方箋はあるのでしょうか。ひと言で言えば、「主体的な判断で対応すること」。これに尽きると思います。

主体的な判断のために必要な発想は、リスクを起こり得る現実として想定することです。「この出資に同意したら、どのようなリスクがあるか」を自問自答し、思いつくままに列挙していきます。これは実際に紙などに書き、目で見える状態、いわゆる「見える化」することがポイントです。

私の米国留学時代の学友にテキサス州の教育委員会で青少年問題に長年取り組んできた女性がいます。彼女は中高生の自殺予防対策の専門家であり、著書も多数あります。彼女によると米国では、中高生の自殺の背景には、アルコールやドラッグ、両親の離婚、そして自信喪失等があるそうです。

一方で、日本では、自殺の背景には「いじめ」があります。昨年彼女とこの問題について若干議論をしました。ニューヨーク育ちの彼女は自分の兄による「いじめ」があって、大学の宿舎から家に帰るのがいつも恐ろしかったと笑って言っていました。成人した今は非常に仲の良い兄妹になっています。

ところで、「いじめ」は英語でBullyといいます。定義は、「小さいもの、弱いものに対して、恐怖や脅威を与える」などとあります。一般的にBullyをする人は人間として最も卑しいと言われます。職業として、「客引き」、「ポン引き」などという意味もあります。

「今日のビジネス人はリスク・テイキングをしない」という批判があります。リスクを負わずに成功を勝ち得る時代は過去にありました。しかし、日本的経営の終身雇用、年功序列が崩壊しつつある今日、リスクを取る人たちが現れないと、世の中の活力が失われる。これは自明の理です。

日本のことわざにもあるように、「失敗は成功の元」です。それにもかかわらずリスク・テイキングの機運は生まれないように見えます。世の中には、国家予算を使って失敗の研究から成功のヒントを求める研究をする機関がありますが、その成果はほとんど聞こえてきません。

注目を集めた自民党総裁選の結果が本日出ます。久しくお目にかからなかった候補者同士のディベート(公開討論会)が見られたのは、選挙の民主性が担保されたことであり、評価できる点だと思います。これを、模範として次回の衆議院選挙でも、小選挙区制などで立候補者による公開討論会が活発に展開されることを願うものです。

米国の大統領選では、このような討論会を1年以上かけて実施し、有権者に判断材料を与えています。

ところで、小泉構造改革による「影」の部分に両候補は対応すると、表明しています。この「光」と「影」で表現される施策に対して、日本には独特の思考様式があります。すなわち、一度、「光」の部分の施策を推進し、ある時期を経て見直した結果、弊害(「影」)が顕在化すれば、それに対応するということでありましょう。

今年(2007)5月10日の日本経済新聞の記事によると、スイスIMD(経営開発国際研究所)が発表した2007年世界競争力年鑑で、日本は中国の15位を大きく下回り、24位に後退しました。これは、IMDが、55カ国と地域について、「マクロ経済」、「政府の効率性」、「ビジネスの効率性」、「インフラ」の4分野、323項目を分析した結果に基づきランキングを作成したもの。本日はこの深刻な結果の背景を改めて考えたいと思います。

特に低評価なのが、政府の効率性(26位→34位)とビジネスの効率性(22位→27位)の2分野。政府の効率性が、優秀な霞が関のキャリア官僚がいるにもかかわらず、これほどまでに低く評価されていることを、不思議に感じました。報道では、同分野を項目別に見て、「法人税率」(55位=最下位)、「政府債務」(54位)などが足を引っ張っていると解説していますが、私はそれ以外にも、次のようなことが挙げられると思うのです。

先日ブログで、公僕について触れましたが、日本では、「公僕」と「公職に就く人」の定義の違いを意識する人は少ないようです。広辞苑によると、公僕は、Public Servantsとして、「公衆(国民)に奉仕するもの。公務員などの称」、また公職の定義は、「公務員・議員などの職務。公の務め」とあります。公職に就く人のほうが範囲が広いようですが、この違いを認識されている方はあまりおられないと思います。

このような曖昧さが残る背景には、初中等教育で、公僕、公職、公務員、国会議員などの役割や責任について、あまり教えられていないことが挙げられるのではないでしょうか。共通にいえることは、「公に奉仕する人」の定義や、その意識の欠如が、社会に大きな影響を与えています。公僕や公職に就いている人たちの、「公に対する奉仕という精神の希薄化」が問題なのです。

ところで、米国の上院・下院議員の報酬がどの程度なのかを友人に聞くと、日本の「歳費」に当たる年棒は10万ドル程度とのことでした。それに対して、日本の国会議員や代議士は、経費も込みで約3500万円に上るといいます。この妥当性について、評価する立場にはありませんが、公に使える、奉仕するという点から見ると、問題が残るのではないでしょうか。