飯久保廣嗣 Blog

最近、米海軍の脱走兵による殺人事件をメディアが大々的に取り上げている。この一連の問題で、1つ不自然に感じることの一つは、駐日米国大使と在日米海軍司令官が、横須賀市長のもとを謝罪のために訪れ、頭を下げたことである。

さらに、もう1つ不自然なことは、この市長が「2度と問題を起こさないようにしていただきたい」と、居丈高に強く要請したことである。国を代表する人が謝罪に来ているのに、不遜と思われる態度で対応しているのである。両米国人責任者の心中を察すると、穏やかではなかったのではないだろうか。

この問題の本質は、「在日米軍の軍人は絶対に犯罪を起こしてはならない」という神話が存在することである。これは、「自衛隊員は絶対に事故を起こしてはならない」という発想と同じである。こうした発想は現実的ではないし、危険である。隠蔽体質はここから発生するのである。このような呪縛から解放されていないことは、日本が解決すべき本質的な問題の1つだ。

物事に絶対はない。「犯罪や事故は起こりうる」という発想の転換が必要である。そして、そのような現象が、どのような確率で、どのようや原因で発生するかということを分析することが必要となる。その上で諸対策を予め考えておくことがポイントとなるのではないだろうか。

対策としては、例えば、「犯罪の度合いにより、被害者への補償を決めておく」、「犯罪者に対する捜査の手順を事件の内容別に策定しておく」、「再発防止の諸施策を予め決めておく」などが考えられる。物事や事件が起きてからその対応を協議するのでは遅すぎるのである。

日本人の智恵にある「泥縄の教訓」を生かしたいものである。この諺の意味は、問題の発生を想定して、万が一それが発生した時の影響を最小化する対策を予め講じておくと言う
事である。泥棒が入ってから犯人を縛る縄をなうのでは遅いという意味である。

この発想が国際社会で当たり前に使われているコンティンジェンシーの概念であり、残念ながら今日の日本には、適切な言葉すらない。状況に応じて、予備対策、有事対策、緊急
避難対策、予備計画、発生時対策など、同義語はあるものの、概念を表す言葉は見えない。