飯久保廣嗣 Blog

最近、何らかの「ボランティア」に参加したいという熟年層が増えている。そのような発想自体は実に結構なことだ。「定年退職をして何か役に立ちたい」、「生きがいがある生活をしたい」、「ボケ防止に今までの経験を活かしたい」など、動機は様々なようだ。

過日、私の親友とゆっくり話す機会があった。「これからは大いに“Public Service”をやろうじゃないか」、と彼はいった。彼はあえて「ボランティア」という言葉は使わなかった。

そこで、この2つの言葉の違いが何であるかを考えた。大辞林によるとボランティアの意味は、「自発的にある事業に参加するひと。特に、社会事業活動に無報酬で参加する人。篤志奉仕家」となっている。

しかし、日本ではボランティアというと、単に前段の「自発的にある事業に参加するひと」を指す場合が多い。現に団体の多くはボランティアに対し、交通費を支払ったり、昼食を出したりする。

ボランティアは、字引の後段にある「社会事業活動に無報酬で参加する人。篤志奉仕家」、つまり、“Public Service”の担い手というのが、本来の姿であるはずだ。だが、実態は乖離している。だから、親友は、「ボランティア」と、いわなかったのだろう。

真にボランティアを志すのであれば、「無報酬」、「篤志奉仕家」の立場を徹底することが肝要ではなかろうか。10年以上前の神戸淡路大震災に日本各地から多くのボランティアが終結した。彼らは交通費はもとより食費や滞在費も自腹でまかなったときく。これが正しいPublic Serviceであり、ボランティアである。

結論的にいうならば、ボランティアを志向することは自己犠牲が伴うということである。単に時間があるからといった軽い気持だけでは良い仕事はできない。自己犠牲は、時間だけではなく、経済的な出費を含むことを認識したい。それでこそPublic Serviceが社会にインパクトを与え、人々の心を、行動を、変えていくのではないか。

また、NPOやNGOを名乗る団体も増えてきた。純粋に社会のためになる活動を目指す団体がある一方、犯罪歴を持つような人たちが理事になっているものもある。また、政府からの予算を取り付けることを主なる目的としている団体もある。善意のボランティアが迷惑を被らないように、政府には何らかの対策を求めたい。