飯久保廣嗣 Blog

国際交流や相手国への理解が重要であることはいうまでもありません。そのために様々な個人や団体が活動をしています。これからは特に草の根運動的な個人対個人の活動が重要視されます。日本も国家レベルでこの領域に対し積極的な支援を展開しています。国際協力基金などはその代表的な例でしょう。

ところで、米国社会や米国文化を深く理解していると思っていた私ですが、最近、大いに反省させられる出来事がありました。

それは親しくしていたインディアナ州の州知事に関わることです。非常に残念なことに、この州知事は2003年にシカゴで開催されていた日米関係会議の初日の朝、心臓発作で倒れ、1週間後に帰らぬ人となりました。

知事夫人とも親交があったので、9月の命日には毎年白いバラを贈り続けました。日本人としての発想では、命日に花を贈るというのは当然のこと。今年も例年通り白いバラを贈る予定でおりました。

しかし、そのことを米国人の友人に話すと、「もうやめたほうがいい」と注意されてしまいました。友人いわく、米国では、命日に亡くなった人を想い、花を送る習慣はないとのこと。それはかえって、悲しい出来事を思い出させることになり、本人のためにならないのではないか、というのがその理由のようです。つまり、米国では、家族の一員が亡くなった場合でも、それを過去のものとして頭の中で整理し、将来に向かって新しい人生を歩むという発想が一般的。将来の人生設計の足かせになってはいけないという考え方もあるのでしょう。

私の米国理解にも大きな限界があると、改めて自覚し、反省しました。次回訪米のときに未亡人を訪ね、墓参りをすることによって、区切りをつけることにしようと思っています。

さて、この「命日に花を送り続ける」という日本人的発想ですが、実は、日本を今でも悩ませている大きな問題にも影響を与えていると、私は思っています。それは戦後処理の問題です。戦争を起こしてはならないという強い意識は日本人の中にあります。しかし、その表現の方法が、国際的に受け入れられるようなものであってほしいと願います。

戦争犯罪などの事実を歴史として記録し、そこから理性的に学習することは重要です。しかし一方で、日本には、戦争の悲惨さを感情的に次世代に伝えていくという風潮があり、その目的が一体何なのかを、考えさせられてしまうことがあります。単純に悲惨さを語るということは、相手に対する憎しみや、自身の悲しみを思い起こすことになる。それだけでは、建設的な議論につながらないのではないかと思います。

日本の死者を悼む風習を否定するつもりはありません。しかし、将来に向けての建設的に語り合うウェイトをもう少し大きくしてもいいのではないかと考えます。アジア諸国への対応も事実関係を明確にし、そのことから将来について議論することが建設的であると思うのです。いたずらに謝罪、謝罪が話題の中心になっては、花を贈り続けるという、日本的発想につながり、これではエンドレスに過去に縛られ、永遠に謝罪を繰り返すことになりかねないのではないでしょうか。