飯久保廣嗣 Blog

人は一般的に、自分でものを考え、自分で決めて行動を起こしたいと思っている。その「ものの考え方」を教えることが教育の中心課題である。

ところが、戦後の日本独特の「知識偏重」教育は、自主的かつ理性的にものを「考えること」を封じてきたのではないだろうか。子どもから「考えることの歓び」を奪い取ってきたのではないだろうか。

「考えること」とは、知識を要領よく覚えることだろうか。如何にうまくやることだろうか。如何に楽をすることだろうか。楽をして金を儲けることなのか。相手を出し抜くことなのか。不正に手を染めることなのだろうか、犯罪からうまく逃げおおせることなのか。

「考えること」の楽しさを、小さい時に身に付けさせないと、その場限りの衝動的な行動を誘発するのではないか。

人は誰でも自分で行動したいと思っている。その行動の前に、「考えること」を促すのでなく、「答え」を与えてしまったら、どうなるだろう。「仕事をサボるとクビになるよ」、「勉強をしないと、いい学校にいけないよ」、「不正を隠蔽すると大きな問題になるよ」。これらの根っこは同じである。ある行動に対しての結論を知識として先に示してしまっているのだ。

「サボる」とどうなるのだ? 「勉強をしない」と、CONSEQUENCE(その結果)はどうなるのか? 「不正を隠蔽する」と、何が起きるのか? このような単純な道理に対しても、最初から答えを用意してしまっている。その結果、「考える」感覚が、麻痺してしまっているのが、現状ではないか。理性を持って、論理を持って考える行為をしないため、事態の重要性やCONSEQUENCEの認識も鈍感になっているようだ。

結局、「考えること」ができなくなっているから、ものが決まらない(意思決定ができない)。決まらなければ、行動は起こせない。行動しなければ何も変わらない。何も変わらなければ、進歩や前進、発展もない。このマイナスのスパイラスを誰も傍観していていいとは思わない。先送りの連続では組織も国も持たない。

そこで、自分でものを「考え」、「行動」し、「成果を出せる」人材を育成しようと、教育制度は改定された。ただし、具体的な目的も設定せずに「ゆとり教育」の導入に短絡したため、成果どころか基礎学力までも低下させてしまった。

ところで、「自分で考える」とは、どういうことだろうか。それは、「直面する状況の現象ではなく、本質を見極めること」ではなかろうか。その上で「自分は何をするべきかを、決めること」により、「意思決定」が可能になる。

すなわち、「組織の中でとんでもない事が起こりつつある」という現象をことさらにあげつらうのではなく、

①この現象(行動)を容認すると、どのような結果になるかを想定する
②致命的な結果が起こる可能性と、起きた場合の影響を考える
③その現象(行動)以外の複数の選択肢を考える
④選択の根拠を示しつつ、最良の選択肢を選ぶ(決める)
⑤その方法を選んだ場合にどのようなマイナスが考えられるかも想定する

これが、いわゆる「考える」という行為であり、よく本質を見極めた理性的な判断であり、「意思決定」を可能にするプロセスとなる。

例えば、違法行為をしなければならない境遇に陥った場合。判断業務の本質は、「相手に与えられた選択肢を行使するかどうか」という、レベルのものではない。「違法行為の結果どのようなことが起こるか」や「起きた場合の影響」を想定し、「命令された行為以外の複数の選択肢」を自分で考え、「それらの中から最適なものを選定すること」こそが、「意思決定」の本質といえるのではないか。

やや難解な話になったが、「意思決定」のプロセスをコンパクトにまとめると、

①現象(行動)に対する結果の想定
②結果が起こる可能性と起きた場合の影響の想定
③複数の選択肢の想定
④最良の選択肢の選定と根拠の提示
⑤選択肢のマイナス要因の想定

ということになる。このポイントをベースに考え方を整理すれば、困難な状況でも、ものごとを決めることができ、さらには、行動を起こし、変化、発展につなげられる一助になるのではないだろうか。