飯久保廣嗣 Blog

安倍改造内閣が発足しました。支持率が好転したものの、政治に対する国民の不満が解消されたわけではありません。政治とカネの問題、天下り問題、官僚や首長と企業の不明朗な癒着などにより、国民の政治や官僚に対する不信感は依然としてくすぶっています。

そこで、私人(企業人)と公人の違いを考えざるを得ません。私人(企業人)は、自分の能力を駆使して、売上げ、利益、収入を生むことにより、生計を立てています。緊張感や危機感が働き、そこに努力や工夫といったものが生まれるのでしょう。翻って、公人は、公のため、つまり公益や国益のために奉仕し、必要に応じて、「公」から金銭を受け取り、生計を立てています。

公人は公僕とも言います。英語ではPublic Servantsです。民度や文化の水準が高い社会で今日においても、度々使われている概念です。例えば、Public Servantsとしての人格、識見、姿勢、哲学、実績、倫理が問われる場面を、欧米メディアで、目にしたり、耳に聞くことは、しばしばあります。

国民が選出する議員はもちろんのこと、官僚のPublic Servants=公僕という意識が薄らぐとその社会は疲弊し、不幸な結果を招くことになります。日本が先進国であるならば、汚職や不正、隠蔽、公金流用などに対し、国民やメディアが毅然たる態度をより一層示すことが必要なのではないでしょうか。ちなみに、私の米国人の友人の家族の一員が、ある州政府の上院議員で不幸なことに、公金流用の容疑をかけられ、今日裁判になっています。その友人の話によると、最悪の場合、100万ドル(約1億2000万円)の罰金と禁固25年となるそうです。この厳しい罰則は不正を抑制する制度としての1つの機能といえます。

この厳正な制度や態度の積み重ねが、税金の無駄遣いの抑制、政府プロジェクト失敗の隠蔽防止などにつながるのでしょう。一方、日本はそこまでの法律や社会の視線の厳しさは見られません。日本人の寛容さもありますが、公僕という意識が近年薄らいできていることにも原因があるといえます。

その背景の1つに、「卑しさ」が挙げられるのではないでしょうか。広辞苑で「卑しい」とは、「(食物や金銭などに対する)欲望が、むき出しである。いじきたない。」とあります。そこで、旧国鉄の石田禮助総裁の言葉を思い出します。いわく、「『粗』であり、『野』であるも『卑』ではない」。これは日本人に元々備わっている尊厳と品格に対する意識であり、これこそ公僕の原点だと思います。この出発点に立ち返ることが世の中の変革につながるのではないでしょうか。