飯久保廣嗣 Blog

私は若い頃、神奈川県の某市に住んでいたことがあります。そのときに投書と親書には違いがあることを認識させられる経験をしました。

当時住んでいた貸家周辺は下水設備が不備があり、また周辺には治安上の問題もありました。そして時を同じくして、追加の市民税の納付書が送られてきました。私は周辺環境がおろそかにも関わらず追加の税金を要求することに納得がいかなかったので、当時の市長宛に手紙(親書)を送ることにしました。下水の状況、治安その他地域環境についての質問に対して文書で回答を求め、回答がない限り追加市民税は払わないという内容の手紙を書いたのです。

その後、市の土木課長が計画の説明に現れたり、広報課長が挨拶にきたりしました。ただし、ついに、市長に対する親書から返信をもらうことはありませんでした。

また、その後数年を経たとき、自動車を購入しました。ところが、この車は販売店の最終点検が中途半端なまま納入され、ブレーキ液の容器のキャップがなかったり、タイヤのボルトがきちっと締めてないようなひどい状態でした。そこで、私は販売店の社長宛に親書を出し、なぜこのような状況が起きたのか、回答を求めました。それに対して、どういう現象が起きたと思いますか?

数日後にその販売店の常務取締役が菓子折りを持って謝罪に来たのです。菓子折りをお返ししながら、私は思いました。こちらは単純に親書に対する返信を求めたのに過ぎないのであり、この販売店の社長から事情を説明した文書を受け取ることで一件落着するのにと。

さらにそこで、日本には投書と親書の間に区別がないという認識を持ったわけです。投書は広辞苑によると、「希望、意見、苦情、摘発などを書いた書状を送りつけること」であり、必ずしも、返信を伴う必要はないと定義されています。それが今でも投書欄やメーカーに対する投書という形で残っています。

日本が製品を海外に輸出し始めたとき日本メーカーに出された不満の一つに、企業宛の文書(クレーム等)、つまり親書が無視され、返信が全く来ないというものがあったとききます。欧米では、親書に対して、受けた相手が返信するというのが礼儀であり、ルールであるとされています。もちろん本人が全てに直接返答するのではなく、代理で対応するケースも多く見られます。例えば、米国上院議員には専任の文書係がいて、親書には必ず丁寧な対応しているそうです。民間企業でも、社長に充てた記名式の親書には、秘書等により必ず相応の対応がなされます。私も直近に、ある件でヨーロッパの大メーカーの社長に手紙を差し上げましたが、即刻返事をいただきました。

我国も、個人が自立し責任を持つ社会に成長する過程で、日本的な発想の新しい解釈や転換が必要だと思われます。その一つが、投書という概念。いかにも日本的な発想であり、無責任さにつながるものです。メーカーに手紙を出す人は、その企業の最高責任者から回答を要求するなどとは、露にも思わないでしょう。この発想をこれからは変えていくことによって、出す人、受け取る人のお互いの責任意識が醸成された社会が形成されるのではないかと思います。

無記名の投書から署名入りの親書へ。これが、日本人の自立をうながし、責任感につながるのではないでしょうか。顔の見えない日本から顔が見える日本になるということは、こういった小さな一歩から始まるともいえるのです。