飯久保廣嗣 Blog

ニュースとEM法

これまでに私は日本の意思決定の精度について、意見を述べてきた。意思決定の迅速性に関しては、日本は改善の余地があると考える。一方で、米国の意思決定の精度(質)は、最近の金融市場の混乱を見ると、疑問を持たざるを得ない。つまり、これはグローバルな問題になってきているといえる。

その本質は、「意思決定の品質のマネジメントをどのようにコントロールしていくか」ということである。意思決定では「ある案件に対して複数の選択肢から最適な案を選ぶ」という冷静なアプローチが必要である。それにも関わらず、グローバルなイシューに対して、方法に短絡をする傾向がより強まっている。

これも、正確な情報にのっとった短絡ならば許されるのかもしれない。だが、不確定情報や捏造情報を基にした意思決定への短絡は大きな災いをもたらす。その例の1つが、ジョージ・W・ブッシュのイラク攻撃だろう。

場合によっては、経験やカンを基に即座に意思決定することも必要だが、その際には必ずマイナス要因の分析を怠らないことが条件となる。例えば、イラク攻撃では、「当時のホワイトハウスに入る情報が不正確だった場合のコンセクエンス」、「そのコンセクエンスからくるマイナス」、「軍隊を出動した場合の長期泥沼化の可能性」、「現地の対米感情の悪化の可能性」など、枚挙に暇はない。

このような発想でマイナス要因を分析していたならば、素人の意見ではあるが、別の選択肢があったのかもしれない。これが意思決定の品質のマネジメントの効果なのである。

わが国が国際社会において、イニシアチブを取る場面はあまり見られない。しかし、新総理が各国に対して独自の提案をする場合には、意思決定の品質のマネジメントを充分に考えてもらいたいものだ。

2008年10月23日付けの日経新聞朝刊のトップ面に、医療問題についての記事があった。これは医療事故に関する調査方法が迷走しているといった内容である。その中の一部を引用したい。

厚生労働省医療安全推進室長の佐原康之(44)は「日本の医療制度は医療事故があることを前提に設計していなかった」と認める。

この引用からは、日本人の思考様式の欠陥が如実に現れている。それにも関わらず、読者も記者も事の重大性に気が付いていないように思える。

「医療事故があることを前提に設計していなかった」ということは、次の3つの重大な思考上の欠陥を生む。

第1に、「もし事故が起きた場合に、隠蔽せざるを得ない」という、組織の隠蔽体質を醸成してしまう。

第2に、「発覚したときに、組織の防衛のために、組織ぐるみで徹底的な否定に走る」という現象を起こす。

第3は、「再発防止の方策が、中途半端なものになる」。これは、事故の真の原因を追究する姿勢が薄いために起こる。

例えば、自分の子供が期末試験を受ける際に、親が「絶対に及第点を取れるね」と子供に確認したとする。これは「事故が起きない」ということを前提としていることと等しい。もし及第点を取れなければ、子供は成績表を隠す。隠し通せなければ、理由をつけて自分の非を認めない。そうなると、「なぜ及第点が取れなかったか」という分析よりも感情的に「追試験はがんばりなさい」と念押しすることになり、おそらく本当の問題が未解決のままとなるだろう。

これは、「日本人の完ぺき主義」、「ミスを認めることを恥とする文化」、「敗者復活の発想が薄いこと」などが背景にある。まずこのような思考様式の特質を認識することから始める必要がある。特に、政策や法律を作る中央官僚や政治家に、強く認識を持ってもらいたいものだ。

「問題は起こり得る」という前提から諸対策を講じていくほうが合理的であり、抜け漏れが防止でき、発生時の対応が容易になる。このことは、企業においても問題点を予め想定することにより、陰湿な内部告発的な動きを防ぐことにもつながる。告発する内容が予め想定されていれば、もし発生しても告発する必要性はなくなる。つまり、「このような問題が起きるかもしれない」とガラス張りにし、予め対策を練っておけば、問題発生時にその対策を実施すればいいだけの話ではないだろうか。

無論、実態は問題が錯綜し、複雑化するのが現実だろう。しかし、このような発想法を意識していれば、問題解決や意思決定のコスト削減につながるのではないか。

最近、「抜本的な見直し」という表現が目立つ。特に政治や行政の世界では、この言葉を聞く機会が多い。民間企業の意思決定であまり使われない表現だ。

だが、民間企業でも「見直し」という表現は使われる。「見直し」の本質的な意味は、「いったん決定され、実行されたことに何らかの問題が発生し、このことを修正するために、対策を考え、行動する」ということになる。

目に見える製品であれば、この見直しは「設計の変更」ということであり、部品の交換などが考えられる。事態が深刻であれば、リコールということにもなる。これは、不良商品の「見直し」をして、改善することに他ならない。製造現場でのこの事態は深刻であり、企業の業績に直接反映してくることになる。

この現象を別の表現を使えば、「不良商品を生産・販売し、顧客に迷惑をかけ、世の中をお騒がわせした」ということになる。当事者には社会から圧力がかかり、謝罪が要求される。

しかし、政府の政策に不具合が発生し国民が迷惑をこうむった場合はどうなるか。これが不思議なことに、「抜本的な見直し」のひと言で許されてしまうのだ。

この抜本的な見直しの根底にあるもの、それは「意思決定の不良」である。従って、見直しをする場合、「なぜそのような不良が起きたのか」といった原因を明確にしなければ、再発防止策を作ることなど到底できない。抜本的な見直しを発表する際によく使われる「二度とこのようなことにならないように……」という言葉は、本来、原因が明らかになっていなければ、常識的にはいえるものではないはずだ。だが、現実には原因不明確なまま、言葉だけがひとり歩きする。

「今回の抜本的な見直しに至った原因は、「……」、「……」といった検討項目に抜け漏れがあり、さらに、実施上の計画である「……」、「……」に無理があった。従って、そこを改善するために、修正案は「……」、「……」といったものになる」となれば、納得がいく。国民も、メディアも、もっと論理的に本質に迫りたいものだ。

また、政府の政策の「抜本的な見直し」が生じる、つまり「政府の意思決定の不良」が発生すると、その修正のための費用(役人の作業費、制度変更のコストなど)は、やはり国民の税金から負担することになる。これからの時代は目に見える税金のムダ使いだけでなく、目に見えない「抜本的な見直し」にかけられる税金のムダも考える時代となろう。

精度不良の製品はクレームが付いて、すぐ返品される。工場で不良部品が発生すると、生産活動はストップし、大きな問題として責任者が対応する。目に見える現象に対してはこのように対処がなされ、問題の原因が究明され、再発防止の対策も講じられる。すなわち製品の精度のバラツキには大きな関心が払われ、これを改善するために経営資源が惜しみなく注がれる。

製品の精度については、まず、材料品質が吟味され、さらに、どのような方法で加工されているか、どのような「道具」が使用されているかが検証される。この場合の「道具」はすべて目に見える作業に関連するものであり、「道具」そのものを目視で確認できる。改善も工夫も容易である。目に見えるからである。

一方、目に見えない意思決定の「不良」はそれが発生してもあまり問題にならない。製品に対する不良のように、誰もすぐには迷惑をこうむらないし、それが大きな問題にならないうちは、傍観するほうが波風は立たない。

そうする方が無難。チームワークも乱れない。目に見えないから問題視する声も出ない。また、大きな社会問題になっても、意思決定の「不良」は責任を追及されない。マスメディアの前で謝罪劇を演じる必要もない。

戦後しばらくはこれでも経済は回った。高度な成長も成し遂げた。しかし、節目が訪れる。バブル崩壊前後から、ものづくりで世界をリードしてきた日本に陰りが出てきたのだ。そして、その状況は今より悪化しているといえる。

理由は何か。開発技術や生産技術、さらに日本人の能力が劣化してきたのだろうか。本質的な問題はそこではないだろう。意思決定の「不良」を解決せず、先送りしてきたことこそに問題の本質はあるのではないだろうか。

ところで、意思決定という、いわば「問題に対するベストのソリューション」を選定する場合、その精度の良し悪しはどこで左右されるのだろうか。例えば、意思決定がある案件に対して最適の選択肢を選ぶことであるならば、その精度を決めるのは、選択肢自身なのか、選択肢を選ぶ作業なのか、それは定かではない。

では、違った角度から見てみたい。人は不適切な選択肢を、何故選ぶのだろうか。カレーライスが効率よく作れても、味がマズい場合もある。何故そうなるのか。また、社内の切れ者が天才的な閃きで考えた新しい組織も、実施してみると、不評であちこちに齟齬が出てくることがある。画期的な新製品を開発して販売してみたが、思ったように売上げが伸びないこともある。なぜ、このような現象が起こるのだろう。

それは、意思決定の精度、すなわち「品質」が悪いためである。では良い品質の意思決定をするためにはどうすればいいか。

残念ながら特効薬はない。ただし、長期的な目で見れば、品質を向上させることはできる。それには、「最適な結論をもたらすための考え方(分析)を標準化」し、「それをマネージする方法」を獲得することが必要となる。そして、その原点は、結論に至る個別のアイデア(考え方)が、なぜ必要なのかを考慮し、その思考を身に付けることである。

カレーライスの料理の段取りを例に見ていこう。料理法がいかに理路整然かつ合理的であっても、その理由を考えなくては自分のものにならない。例えば、「なぜこの温度調整なのか」、「なぜジャガイモを煮込む前にタマネギを炒めるのか」、「人参と鶏肉の相性はどうなのか」など。

意思決定の精度を上げるには、考えるプロセスを論理的な手順に並べるだけでは不十分だ。それでは単なる知識にとどまり、智力にはなり得ない。なぜその過程にその考え方があり、必要なのかを熟慮する。そうすることで、智力となり、スキルは自分のものとなる。

つまり、意思決定の精度を追求し、自分も組織も適切は判断業務ができるようになるためには、思考のプロセスを超えた原理を考えることが最も重要となる。

「なぜ、意思決定には選定基準が必要なのか」、「なぜ、選定基準を分類しなければならないのか」、「なぜ、問題が発生した時の具体的な現象に対してセーフティーネットを事前に用意するのか」、「なぜ、その作業をその時点でするのか」――。

それらには明らかな根拠がある。そこを見出すことこそ、「意思決定」の不良を改善する原点だということを、胸に刻みたい。